うさくん『しあわせももりんご』にみるオタク的エロネタ

はじめに

 以下、少々品のない議論になるので注意されたい。
 本稿では、一般向け品性下劣系ギャグ漫画、うさくん『しあわせももりんご』の解釈を試みる。
 あらすじもクソもないのだが紹介しておこう。
 ランジェリータウンという町が舞台だ。主人公はランジェリー中学二年生、桜崎桃彦。エロスの追求にかけては天才。彼が町の変態仲間とともに、さまざまなエロスを追い求めていく様を描いている。私が共感を覚えるのは、紺藤幸水校長(属性セーラー服・3200エロス)と辺幸作郎くん(属性眼鏡・6800エロス)か。まあそれはいい。
 この作品におけるエロネタの性格について、分析してみたい。

おっぱいぱんつパラダイム

 『しあわせももりんご』は下品なエロネタに溢れている。が、そこではすべてのエロが許容されるわけではない。極端な主題の限定が見られる。
 実は、この作品においては、性交への欲求がきれいに抜け落ちているのである。そして、性交とはまったく切断されたかたちで、ただただ「おっぱい」と「ぱんつ」がそのものとして追求されているのだ。
 『しあわせももりんご』の登場人物たちは、女体に情熱を向ける。しかし、性交してぇ、という方向にはまったく行くことはない。ただただ「おっぱいが揺れた」「ぱんつが見えた」を求め続ける。それゆえ、彼らはカラミのあるAVを見ることはない。エロ本を見るのである。ここには明白にエロにかんする主題の限定が見て取られる。
 このような限定が見られるのは、『しあわせももりんご』だけではない。古賀亮一の一連の作品や、最近では、赤井丸歩郎『仮面のメイドガイ』などにも、似たような「おっぱい」や「ぱんつ」への執着を見て取ることができる。
 このような主題の限定を「おっぱいぱんつパラダイム」と名づけておこう。これをいかに理解すべきか。

「一般誌の枠」解釈

 一つめの解釈は「一般誌に載るためにエロ描写をヌルくしている」というものだ。しかし、この方向は上手くいかない。
 ただヌルくするためならば、「性交を追求しつつも寸止め」でいいわけだ。そのような一般向けエロ萌え作品も多く存する。しかし、「寸止め」の芸風と、「おっぱいぱんつパラダイム」の芸風は、明確に異なる。「寸止め」は目的地に届かないのだが、「おっぱいぱんつパラダイム」は目的地そのものが変更されているのだ。
 「一般誌に乗るためにエロ描写をヌルくしている」説は、「寸止め」すらNGのよほど低年齢向けの作品でないかぎり、説得力をもたない。誤りとまでは言えないが、「寸止め」と「おっぱいぱんつパラダイム」の差異を説明できないがゆえに、不十分である。

「ノスタルジックな懐古」解釈

 二つめの解釈は、「おっぱいぱんつパラダイム」に「ノスタルジックな懐古」の契機を見て取るものだ。
 主人公、桜崎桃彦は中二である。そして、『しあわせももりんご』には、なるほど我々の中二時代への郷愁を誘うようなエピソードが登場する。「エロ本が欲しいがなかなか買えない、店番がぼんやりした婆さんの本屋を狙ってさりげなくアタックを試みる」とか。これには私の記憶の変な扉も開いてしまった。「おっぱいぱんつパラダイム」とは、我々のかつてのエロ体験を懐古させるような装置なのではないか。
 しかし、この解釈も上手くいかない。『しあわせももりんご』は一見中二的に思えるが、それは端的に錯覚である。
 たしかに昔に思いを馳せれば、我々は「おっぱい」や「ぱんつ」だけで十二分に「ああこれはエロいなあ」と喜ぶことができた。しかし、そうではあるにせよ、「おっぱい」や「ぱんつ」だけを、それとして追求していたわけではないはずだ。「それ以上のエロ」を求めていたのだが、年齢制限や財力、技術力の壁があったので、「おっぱい」や「ぱんつ」で我慢せざるをえなかったというのが実情であったはずだ。
 『しあわせももりんご』の「おっぱいぱんつパラダイム」はそうではない。「おっぱい」や「ぱんつ」がまさに最終目的になっている。これはけっして懐古的反省には基づけられない。

「フェティシズム」解釈

 三つめの解釈。「おっぱい」や「ぱんつ」に執着するというのは、特殊なフェティシズムの表現ではないのか、と思われるかもしれない。しかし、これも通らない。
 フェティシズムであれば、なぜほとんどの場合に「おっぱい」への志向と「ぱんつ」への志向が共存するのかが理解できない。それに、フェティシズムとしてくくるには、「おっぱいぱんつパラダイム」は一般的に描かれすぎている。

エロで笑うための条件

 ここで立ち止まって、下品な笑い一般について考えてみよう。
 一般的に、エロをネタにして笑いをとるためには、エロが実際のエロ行為から一旦切り離されてネタとして対象化されることが必要である。簡単なことで、たとえば、あんまりにも生々しいエロ話は笑う前に引かれてしまう、ということだ。エロで笑うためには、そのエロが興奮しない程度のエロでなければならないのである。
 さて、ここで指摘したいのは、生々しさの線引きは想像力の過多に比例する、ということだ。想像力の大きい人間にとっては生々しく感じられるエロ話も、想像力のない人間にとってはどうということがなかったりする。
 いわゆるおっさん的シモネタが若者を引かせるのは、おっさんが若者よりも想像力に欠けてしまっているからだ。想像力の枯れ果てたおっさんにとっては、実際の性交のみが生々しいものであって、あとはすべてガハハ笑いの対象になりうる。ところが、未だ想像力の働きが残っている若者にとっては、あまりにも露骨で笑えなかったりするわけだ。

オタクがエロで笑うための条件

 さて、オタクである。多くのオタクにとって、エロは、暴走する想像力、いや、妄想力に支えられている。これはすなわち、オタクにとっては生々しく感じるハードルが極めて低い、ということを意味する。オタクはどんなささいな要素でも、それを妄想で膨らませて、生々しく感じうるのだ。
 ここで困るのは、オタクに向けてエロネタを使った笑いを提供したい場合である。
 先に述べたように、オタクは、提示されたネタを、それがどんなささいなものであっても、妄想のうちで生々しく炎上させることができる。極端な話をすれば、エロとは縁もゆかりもない作品から、エロ同人誌を妄想でつくりあげることもできるのだ。その妄想力は、エロくないものをも生々しいエロの目で見ることを可能にする。
 ところが、このことは、オタクにたいしてエロネタで純粋に笑いを成立させるのが難しいということをも意味する。
 ここでは、露骨なエロネタに引いてしまう、というような事態はもはや問題になっていない。ささいなエロ要素でも膨らませて、それで楽しむほうに向かってしまい、作品の狙い通りに笑ってくれないのが問題なのだ。オタクは、なかなかエロをネタとして対象化してくれないのである。
 たとえば、滑稽な「寸止め」描写で一般人は笑うことができる。しかし、オタクはどちらかというとその先を妄想して興奮するほうに向かう。オタクが笑うとしても、それはついでしかない。
 では、エロネタでオタクをきちんと笑わせるためには、どうすればいいのだろうか。

「笑いのための装置」解釈

 ここで「おっぱいぱんつパラダイム」である。これを、オタクにとって笑いが成立するための装置として考えることができるのではないか。第四の解釈ということになる。
 「おっぱいぱんつパラダイム」は、性交への欲求を徹底的に排除する。そして、「おっぱい」「ぱんつ」のみを徹底的に希求する。これは、現実には存在しない欲望のありようである。
 しかし、それゆえに、「おっぱいぱんつパラダイム」は、オタクにたいして「ここのエロは笑うためのものだ」というメッセージを明確に示すことができる。「おっぱいぱんつパラダイム」に定位することによって、オタクのエロ妄想を一旦制御し、笑いに向けることができるのである。
 つまり、「おっぱいぱんつパラダイム」は、エロネタギャグ漫画の可能性の条件として機能しているのだ。現実とはちょっとズレたエロな欲望を主題とすることで、端的にエロをネタとして笑える領域を構成するのが、「おっぱいぱんつパラダイム」なのである。
 オタクをターゲットにしたエロネタギャグ漫画は、ギャグ漫画であるための方法論として、「おっぱいぱんつパラダイム」を採用しているのだ。

おわりに

 『しあわせももりんご』を典型として、少年誌や青年誌の漫画の少なからぬエロネタギャグに、「おっぱい」「ぱんつ」への独特な執着が見られる。
 本稿では、これに一定の説明を与えることを試みた。
 ちなみに、もちろん、これはオタクにたいしてエロネタでの笑いを提供する唯一の手法ではない。別の重要な手法としては、「自虐」などがある。田丸浩史の『ラブやん』などは、「自虐」系統と考えられる。これはこれで独特の論理をもつと思われるのだが、指摘するだけにとどめよう。
 また、「おっぱいぱんつパラダイム」にたいする反応に、オタクとリアル中二の差異を見ることができるかもしれない。オタクはこれで笑うことができる。しかし、リアルでカツカツにエロに飢えている中二であれば、「おっぱいぱんつパラダイム」の枠内でさえも生々しくエロを感じるのかもしれない。もしそうならば、事情はもう少し複雑になるだろう。ただ、最近の若い子の置かれているエロの状況をよく知らないので、確言はできない。
 っていうか、暗黙の前提にしてしまっていたのだが、中学生は読んでいないよなこんな文章は。

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