ライトノベルの源流に遡行する

はじめに

 仰々しいタイトルであるが内容は大したものではない。冒険小説の古典の感想文である。
 「源流に遡行する」というフレーズには二つの意味が掛かっている。第一に、現代のライトノベルから古典へと目を向け返すということ。文学史における遡行とでも言おうか。第二に、私がもっと若くてライトノベルなんかが存在しなかった時分に読んでいた作品を想起してみるということ。こちらは個人史における遡行である。
 この二つの観点から、十作品(プラス番外一つ)を選んでみた。なんとなくかなり昔の海外作品に限定してある。本棚をひっくり返すのが面倒で、とくに読み返すことはしなかったので、うろ覚えの勘違いもあるかと思うが、ご容赦いただきたい。
 どの作品も古典も古典なのでいろいろなところから翻訳が出ているが、私の所持しているものを一応挙げておく。

1 アレクサンドル・デュマ『三銃士』(岩波文庫)

 小学生くらいのころに初めて読んだわけだが、当時の私がどこにもっとも衝撃を受けたのかというと、後半部の山であるところの「妖女ミレディー姐さんによる真面目青年フェルトン君誘惑ミッション」であった。そうか、これが「男をたらしこんで破滅させる」ということなのか、とハァハァしながら何度も読み返したよ。
 もしかしたら私の魔女萌え姐さん萌えの原点はここなのかもしれない。
 ところで、現在の清純派原理主義オタは、コンスタンスがボナシュー「夫人」であることを納得できるのだろうか。訊いてみたい気がする。こと恋愛ゲームのルールに関しては、『三銃士』のほうが現代エロゲーよりも「なんでもあり」のようで、なんだか面白い。
 そういえば、昔の『アニメ三銃士』ではコンスタンスはボナシューの娘になっていたような。まあ、あれはアラミスが女性だったりするから、もうなんでもアリなのだが。

2 ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』(創元推理文庫)

 ヴェルヌ好きなんだ。でも大人になって読み返すと、科学浪漫の裏返しの素朴なレイシズムがかなり酷いのにギョッとするが。ここではヒキコモリの理想像を描いた本作を挙げておく。
 ノーチラス号の図書室のコンセプトは、ある意味本好きヒキコモリの夢ではないかと思うのだ。読みたい本を潜水艦の本棚にとにかく詰め込んで、深海に潜ってしまって、二度と俗世には関わらない。なんとも潔い。
 ただ、こう考えると同時に、私は悩んでしまう。現代のオタとしては、どうしても古典だけではやっていけない。新作に常に触れていたい。
 もしノーチラス号があったとしても、私はネモにはなれないなあ。乗組員もムサい男ばっかりだし。

3 エドガー・ライス・バローズ『火星のプリンセス』(創元SF文庫)

 主人公が突然異世界に迷い込んでしまう。そこで戦争に巻き込まれるが大活躍。異世界のお姫様に惚れられてしまって、もうウハウハ。こういう馬鹿の極みのような妄想をきっちりエンタメ小説に仕上げた奴が1910年代に登場しているというのに感動する。
 つまりデジャー・ソリスがヤマグチノボル『ゼロの使い魔』のルイズの遠い先祖ということになるわけだ。で、『火星のプリンセス』と『ゼロの使い魔』を読み比べてみて気づくのは、後者の出世欲のなさである。
 ジョン・カーターは続編で「火星の大元帥」とかにまで成り上がる。このへんアメリカっぽい馬鹿さである。ところが『ゼロの使い魔』の才人は活躍し四方八方にモテまくるが、社会的地位は一向に向上しない。「知っている人だけ知っている陰の功労者」に留まるわけだ。モテにたいする執着の一方での、この立身出世にたいする冷淡さは、我が国の現代オタクの一つの特徴と言えるのではないだろうか。
 追記。そう考えていたら、九巻でちょっと出世しはじめたよ平賀才人。まさかこのまま一夫多妻制大元帥か。

4 ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』(創元推理文庫)

 世に溢れているすべての「ドラキュラ」モノの原点にして頂点。星の数ほどある後発のどれ一つとしてコレを超えられていない。
 私の読みでは、この作品はゴシックホラーというよりは純粋な冒険小説である。
 序盤から中盤にかけてはもちろんホラーだ。まず「異常な空間に閉じ込められるホラー」をやって、次いで「日常が異常に侵食されていくホラー」をやるわけだ。しかし、これはあくまで起承転結の起承にすぎない。
 そのお話の流れが「呪いを受けたヒロインを救うためタイムリミットまでにドラキュラを斃せ」という「期限つきの困難なミッションをクリアせよ話」に転じていくわけよ。で、こういうタイムリミットものの定石に則って、時間の制約が空間的な距離に変換されるわけだ。すなわち、「ヨーロッパを横断しつつドラキュラを追撃、トランシルヴァニアの根城に逃げ込む前に奴を捕捉し撃滅せよ」って具合に。あとはもう、ただただ「追いつくか!追いつけないか!」でとことん盛り上げていくのである。
 上手いなあ。冒険アクションドラマの教科書みたいな展開ではないか。フルコース、お腹一杯の大満足ですよ。

5 バロネス・オルツィ『紅はこべ』(創元推理文庫)

 感想は、「もっとヒロイン活躍しろよ」。
 フランス革命のさなか、罪もないのにギロチンで首ちょんぱされそうになっている貴族たちを救うために活躍する、神出鬼没のヒーロー、紅はこべ。
 それはいいのだが、ヒロインであるブレイクニー卿夫人マルグリートの、まあ活躍しないことったらしないこと。初めて読んだとき、ここまでツンデレドジっ娘なのはフリで、オチで大逆転の大活躍するんだとばかり思って読み進めていたのだが、結局「助けてもらう女の子」で終わってしまったのでガッカリした覚えがある。作者のオルツィ自身が女性なのに、こうなのか。これが時代の制約なのか。いやまあ面白いんだけどね。

6 アンソニー・ホープ『ゼンダ城の虜』(創元推理文庫)

 こういうリストをつくろうとすれば基本で挙がる『ゼンダ城の虜』。面白いなあ。悪党に狙われている某王国に乗り込んだ快男児、びっくりすることに姿形が国王陛下と瓜二つ。そこでいろいろあって入れ替わっての大活躍。もちろん美しいお姫様と恋にも落ちて…という、まあ、王道中の王道である。
 付け加えると、この作品のいちばんライトノベルっぽいところは、調子にのって続編を書いて、それがなんかイマイチに終わってしまったところにある。誰か止めなかったのだろうか。編集者はなにをしていた。

7 ロバート・アーヴィン・ハガード『コナンと髑髏の城』(創元推理文庫)

 なんだかライトノベルの和製ファンタジィのヒーローは優男ばっかりで物足りないと思いませんか。メルニボネのエルリックの影響だろうか。ああいうのも悪くないが、たまにはコッテリ系も喰いたくなる。やっぱり野性の筋肉だよ筋肉。
 というわけで、『コナン』である。ただし、アーノルド・シュワルツェネッガーのコナンを観た後に読むと、ちょっと違和感を感じるかもしれない。原作のコナンも十分に筋肉バカなのだが、シュワルツェネッガーと比べると、なんだかそこそこ知的に思えてくるのだ。それほどコナンやってたころのシュワルツェネッガーは脳みそ空っぽっぽい。凄いもんである。
 ファンタジィならトールキンの『指輪物語』はどうした、と思う人がいるかもしれないが、あれは時代が新しすぎるので本稿では除外した。

8 ヘンリー・ライダー・ハガード『二人の女王』(創元推理文庫)

 えーっとね、アフリカの奥地に探検に行くんですよ。そうするとそこになぜか白人の王国が見つかるんですよ。そこを支配していたのは、とってもキュートな双子の女王、金髪美女のニレプタたんと褐色美女のソレイスたん。ところが、その二人ともが探検隊のカッコいい一人の男の子に恋しちゃったからもう大変。とんでもない騒動が巻き起こっちゃいます。
 どこの阿呆が書いた深夜アニメの企画書かと思えば、これが冒険小説の古典なのだから恐れ入る。萌えは時代と地域を超えるのだ。
 ただ、深夜のエロ萌えアニメと違うのは、ご都合主義なラブコメ展開に行かずに、どこかでフラグを立て間違えたかのような悲劇へと転がっていくことで。そのへんが古典の良識というか限界というか。
 ちなみに私のもっている創元推理文庫の表紙は末弥純で、まあ可愛らしいニレプタとソレイスがエロ衣装で寝っ転がっている。素敵。

9 エドモンド・ハミルトン「恐怖の宇宙帝王」『キャプテン・フューチャー全集1』(創元SF文庫)

 結構抜けていたので、最近創元が全集をまとめてくれて嬉しいのなんの。表紙のイラストが鶴田謙二で、ジョオン・ランドールが無駄に可愛いのがなんともいえない。
 それはともかく、好きなのだ、キャプテン・フューチャー。悪党に撃たれて息も絶え絶えのニュートン母ちゃんが、サイモン・ライトとオットー、グラッグに幼いカーティスを託すところで私はいつも泣く。僕らのヒーローの出発点は、家族との悲しい別れにあるのだ。ここがいいんだよなあ。太陽系の平和を守るという大義を支えているのが、すっごく個人的でささやかな悲劇っていうところが魅力なんだよ。
 ちなみにE・E・スミスの『レンズマン』とかは、権威主義で偉ぶっているので好きじゃないな、私は。

10 ハワード・フィリップス・ラヴクラフト「時間からの影」『ラヴクラフト全集3』(創元推理文庫)

 やっぱりラヴクラフトの名前は挙げておかなければなるまい。ただ、ちょっと語りにくいのだよね。私はラヴクラフト原理主義者で、クトゥルー神話云々にはあまり興味がない。つまりは、ライトノベルの源流としてのラヴクラフトには興味がない、ということだ。
 この「時間からの影」が私のベスト。次点が「狂気の山脈にて」である。私にとってのラヴクラフトはスケールのでかいSF作家なのである。
 ちなみに私が初めてクトゥルー神話に触れたのは栗本薫『魔界水滸伝』だったか。途中グダグダになっていつしか読むのを止めたが、あれは今どうなっているのだろうか。

番外 ルーシー・モード・モンゴメリ『赤毛のアン』(新潮文庫)

 最後に冒険小説でもなんでもないけれどもコレを。オチということで。
 くどいようだが私は少女漫画や少女小説がそれほど得意ではないのだが、たまに波長が合う作品に出会うと、変な感じに嵌ってしまう。嶽本野ばら『下妻物語』とか荻原規子『西の善き魔女』とか。そういうときに思うのだ。私の心のなかにも確実に「少女な部分」が存在するのだなあ、と。
 まあそういうわけで、『赤毛のアン』はバイブルである。どこを読み返しても止まらなくなってしまう。
 ところで、マシュウ・カスバートの変人度は凄い。超級の女性恐怖症で、アンに「ふくらんだ袖のドレス」を買うてやろ、と店に行くのだが、 店員が若い女性だったという理由だけでテンパってしまい、「熊手と黒砂糖」を買ってしまうという。
 現代日本では彼のようなタイプは社会的にイジメられてしまうのではないか。それがアヴォンリーでは普通に受け入れられているわけで。我々の社会は本当に寛容な方向に進歩しているのだろうか。怪しいもんである。

おわりに

 思いつくままにテキトーに選んで挙げてみた。
 「なんでアレやコレが挙がっていないのか」と不満をもたれる方もいるかと思うのだが、半分個人史なんで勘弁していただきたい。
 反省するに、そもそも「ライトノベルの源流」と銘打つならば、SFとミステリにもっときちんと目配りしないといけないのだが、そこをまるっきり逃げてしまっているのが私の限界かもしれない。

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