三家本礼のゾンビの変遷

はじめに

 三家本礼の漫画を一言で表現するのは難しい。とにかく変わる。代表作の『ゾンビ屋れい子』からして内容が(絵柄と共に)どんどん変化していってしまった。
 そこで、『れい子』から『巨乳ドラゴン』へ至る変化を、作中のゾンビの位置づけの変遷を手がかりに簡単にまとめてみたい。
 ネタバレしまくっているので注意してください。

1 喋る死体としてのゾンビ

 出発点では、『ゾンビ屋れい子』のゾンビは、喋る死体であった。
 ゾンビ屋姫園れい子は、死体に仮初の命を与えることで、死体しか知らない過去の出来事の真実を暴露するのである。
 ここでは生者と死者とのあいだの境界線は明確だ。明確だからこそ、それを侵犯するれい子の行為が恐怖を生む。そして、その恐怖の核心は、死者の口から語られる言葉にある。なんというか、正統派ホラーであった。
 ところが、このモチーフは『れい子』の序盤だけで消えてしまう。

2 道具としてのゾンビ

 「姫園リルカ編」から、「ゾンビ召喚術」なる設定が登場し、皆さん指摘するように、作品は暴走を始める。
 地獄からゾンビを召喚して、自分の手足として戦わせることができるようになったのだ。
 以降の『れい子』は『ジョジョの奇妙な冒険』やら『ゴッドサイダー』やらを混ぜて煮しめて発酵させたような、馬鹿少年バトル漫画道を驀進することになる。もはや「死者のみが知る真実の暴露」などは問題になっていない。この現世での戦いに勝利することこそが目的となったのだ。
 主題が、「真理」から「勝利」へと移行したわけだ。
 それゆえ、召喚されるゾンビは、喋らない。喋る必要がない。ここでのゾンビは、召喚者の意志の延長、手足、道具にすぎない。
 だから、ここでのゾンビは怖くない。あくまで現世の道具だから。百合川サキも、ゾンビ化して、その狂気をすっかり飼いならされてしまった。

3 行動する魂としてのゾンビ

 しかし、ゾンビの変遷はこれでは終わらない。
 ここまでのゾンビは、基本的に、召喚者の忠実な道具であった。しかし、「イーヒン編」に至って、この論理に沿わないゾンビが登場することになる。
 我らがキュエーン、姫園リルカである。
 彼女は他の召喚ゾンビとはまったく異なる。好きなときに登場し、勝手に親友の雨月竹露を護って戦い、帰っていくのだ。
 こうなると、同じ死者の甦りといっても、もはや「喋る死体としてのゾンビ」とは方向は真逆を向いていることになる。
 「喋る死体としてのゾンビ」は、目の前にある死体に仮初に魂が宿るのであった。しかし、ここでは、つねに竹露を見守っている魂としてのリルカが、仮初の肉体を現世に得て戦っていることになる。
 死体が喋るのではなく、魂が行動するのである。
 主題が真理から勝利へと移行するだけではない。勝利を求めて行動する主体が、召喚者からゾンビに移行したわけだ。
 さて、こうなるとおかしなことが起きる。ゾンビが生命力に満ち溢れてしまうのだ。喋るゾンビは、失われた過去を語った。ここには死臭が漂っていた。しかし、自らの確固たる意志に基づいて大刀をブン廻して敵を一撃のもとに葬り去るリルカは、生きていたときよりも野性的な生命力を発揮してしまっている。

4 生命力の象徴としてのゾンビ

 生命力に満ちた死者というのは語義矛盾のような気がする。しかし、よく考えると、そもそもゾンビというのは生命力の象徴なのだ。
 『巨乳ドラゴン』におけるゾンビを考えてみよう。三家本作品のうちでは、ここでのゾンビがもっとも古典的なゾンビ像に沿っている。(古典的といっても『Night of the Living Dead』以降の話であり、大本のブードゥーのゾンビは道具だったりするが。)その特徴は、端的に二つである。
 喰らう。殖える。
 しかし、だ。このような古典的ゾンビ像そのものが矛盾を含む。簡単な話だ。喰らって殖えるのは、まずもって生命なのである。
 ゾンビはうぞうぞ動き回り、喰らって殖える。ゾンビは行動する、それも、もっとも単純な生命がするような行動をするのだ。これほど生命力に満ち溢れた存在が他にいるだろうか、いやいない(反語)。内臓がハミ出ても生きている、というのは、まさに旺盛な生命力の発露である。
 それでもゾンビは感染症の象徴ではないか、それは健康な生命に反しているのではないか、と言われるかもしれない。しかし、ゾンビが病気であるとしても、ゾンビ病で死ぬ人はいないことになる。生き生きと喰らって殖えるのがゾンビなのだから。
 ゾンビは死体でも病気でもない。異なるタイプの力強い生命なのだ。
 かくして、『巨乳ドラゴン』におけるゾンビは生命力の象徴となる。
 『巨乳ドラゴン』は、徹底的な生命力肯定喜劇である。ストリップ劇場という、性欲に満ちた、つまりは生命力に満ちた場に、これまた生命力に満ちたゾンビどもが乱入する。そして、ゾンビどもをさらに超えた生命力をもつ三人の主人公だけが生き残る。
 人が死にまくり、内臓と生首が飛びまくるのにもかかわらず、『巨乳ドラゴン』は爽快感溢れる生命力賛歌になっているのである。ここには、『れい子』初期や、さらに以前の短編に見られたような、死に彩られた暗い恐怖のトーンはもはや一切存在しない。
 まとめよう。『れい子』後期の「行動する魂としてのゾンビ」、その「行動する」という契機を極端に強化すると、「喰らって殖えるゾンビ」という発想に行き着く。「喰らう」と「殖える」がもっとも原始的な行動だからだ。それはまさに古典的なゾンビ像である。そして、このとき、ゾンビは、死体のはずなのに生命力の象徴となっているのである。

おわりに

 三家本礼作品に現れるゾンビ像を追ってきた。こう考えると、ホラーから少年バトル漫画を経てB級馬鹿エログロへ、という、一見出鱈目に見える彼の芸風の変化にも、一本の線が見えてくるような気がしないだろうか。
 また、絵柄の暴走する巨乳化も、生命力肯定の流れに沿っているのだ…とか強弁することもできるかもしれない。
 さらに、言葉で隠された真理を語る、というモチーフを捨てて、まったき生命力の肯定へ、という流れをいじくると、現代思想っぽい話もできそうだが、まあ止めておく。

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