オタク道補論・エンタメ批評の特殊性

はじめに

 以下の議論は大雑把で危ういものなのだが、細部を詰めだしたらキリがないところもあるので、ご容赦いただきたい。基本的な出発点は実は単純で、娯楽作品は芸術ではなく技術に属する、という、知っている人にとってはおなじみのテーゼである。
 漫画批評やらアニメ批評やらゲーム批評やらがなければならない、でも存在しない、僕たち私たちが方法論から構築しなければ、と頑張っている人たちがいる。そのような人たちを、「表現の批評家」と呼ぼう。
 (別のタイプとしては「思想の批評家」とでも言うべき連中がいるのだが、これについては本稿では触れない。)
 ところが、私は、「表現の批評家」たちの主張に、ときにかなりの違和感を感じてしまう。批評の必要性を強調することで、見えなくなる大事なものがあるのではないか。
 漫画やらアニメやらゲームやらについて、レベルの低い言説が大量に繰り返されていることは、私も認める。しかし、その現状にたいする危機感を、批評の必要性に結び付けていいものなのだろうか。

「批評」の問題点

 まず考えるべきは、そもそも批評とはなにか、ということだ。批評という言葉にもいろいろと含みがある。
 私の見るところ、「表現の批評家」たちの言いたい批評とは、表現のジャンル固有の批評のようだ。漫画、アニメ、ゲームなどは、表現のジャンルである。別の表現のジャンルとして、文学やら絵画やらバレエやら歌舞伎やらがあるだろう。それぞれのジャンルに固有の批評の方法論があるはずだ、ということが、「表現の批評家」たちの主張であろう。
 他にも批評概念には多くの含意があるので、以下、この意味での批評を「批評」と呼ぶことにしよう。
 そして、私の主張はこうだ。
 いわゆる「批評」は、娯楽作品というカテゴリーをどうしても取り逃がす。それゆえ、娯楽としての漫画、娯楽としてのアニメ、娯楽としてのゲームを上手く語ることはできない。つまり、「批評」は、そんなものがあるとしてだが、芸術漫画、芸術アニメ、芸術ゲームしか扱えない。
 そのような営みは、私の価値観からすると、かなり不毛である。
 映画「批評」であれば、まだよい。いわゆる芸術映画が娯楽映画とは独立したジャンルとしてなんとなく存在している。映画「批評」の機能する場があるわけだ。
 しかし、漫画、アニメ、ゲームにおいては事情が違う。少なくとも現在、芸術性を軸にしてこれらを語ることに私はあまりアクチュアリティを感じない。ハイカルチャーへの歪んだ憧憬の現れに思えてしまう。

芸術作品と娯楽作品の区別

 芸術作品と娯楽作品との区別を提示しなければならない。別に定義を述べようというわけではないし、絶対の基準を示そうというわけでもない。以下の議論に役立つかぎりでの「まあだいたいこう言えるんじゃないの」程度の話である。
 ごく単純に述べれば、こうなる。ある表現において、「表現そのもの」と「表現されている対象」を区別することができる。このとき、芸術作品においては、「表現そのもの」にかんして「どう表現されているか」が問題になる。ところが、娯楽作品においては、「表現されている対象」にかんして「なにが表現されているか」が問題になるのである。
 簡単なことだ。ゴッホの『ひまわり』は、ひまわりが描いてあるから価値があるわけではない。その絵画表現に価値があるのだ。そして、絵画批評が語るのは、表現そのものの価値である。ところが、エロ漫画においては事情が異なる。そこにエロい事態が描かれていなければ意味がないだろう。
 もちろん、娯楽作品においても、「どう表現されているか」は問題になりうる。エロシーンが上手く描けているにこしたことはないから。しかし、それはあくまで「なにが表現されているか」が明らかになったうえで、技術的な問題として語られるべきものだ。
 ところが、芸術作品においてはそうではない。芸術的に表現されていさえすれば、「なにが表現されているか」は問題にされない。便器だろうがミシンとコウモリ傘だろうがいいのである。

「批評」は娯楽作品を語れない

 さて、上で定義した「批評」とは、徹底的に「表現」すなわち「どう表現されているか」を扱うものである。「表現されている対象」すなわち「なにが表現されているか」は無視されねばならない。
 理由は簡単で、同じ物事にさまざまなジャンルの表現を与えることができるからだ。同じお話を漫画でもアニメでも小説でも表現できる。もし「批評」が表現のジャンル固有のものであるとすれば、「なにが表現されているか」は捨象されざるをえないのである。
 そうなると、どうしても娯楽作品を語ることに無理が出てくる。娯楽作品を語る場合には、まず「なにが表現されているか」を押さえることが必須なのだから。
 もちろん、「批評」が芸術漫画、芸術アニメ、芸術ゲームのみを対象とするのであれば、ここに問題はまったくない。しかし、娯楽作品を扱おうとすると、途端に破綻が起きてしまうのだ。

「エンタメ批評」への移行

 私は、娯楽作品には、娯楽作品なりの独特な語り口があり、あくまでそれを尊重すべきだ、と考える。この語りは「批評」とは異なる論理をもつ。便宜上、これを「エンタメ批評」と名づけておこう。
 では、「エンタメ批評」とはなにか。
 先に、芸術作品においては、「どう表現されているか」が問題になるが、娯楽作品においては、「なにが表現されているか」が問題になる、と述べておいた。そして、娯楽作品において「どう表現されているか」が問題になるときは、つねに「なにが表現されているか」に照らして考えられるのであった。これらのことが手がかりとなる。
 娯楽作品を語る場合の論点とは、以下のようなものであると考えられる。
 第一に、「なにが表現されているか」にかんして、面白いテーマが表現されているかどうか。
 第二に、「どう表現されているか」にかんして、当該のテーマが適切に表現されているかどうか。
 この二つ、とりわけ後者を論じるのが「エンタメ批評」ということになる。

「なにが表現されているか」

 「エンタメ批評」の際に、まず明らかにすべきは、テーマである。
 テーマというと大仰だが、簡単に言えば、どのような娯楽のツボを狙っているのか、ということである。分類の軸にはいろいろなものが考えられる。たとえば、エロ、燃え、泣き、萌え、笑い、などの分類がある。アクション、ミステリー、ラブロマンスといった分類もあろう。巨大ロボット、眼鏡っ娘、女教師、ハードボイルド、ガンダム、触手、メタルヒーロー、クトゥルーもの、といったレベルでの分類もできる。このあたりなんでもいい。
 娯楽作品を欲するとき、我々がまず問題にするのは、このようなテーマの種別である。このとき注意すべきは、ここでのテーマの分類は、表現のジャンルの分類とはまったく異なる、ということだ。これは、娯楽作品へ向かう我々の態度が、ジャンル横断的であることを意味する。
 たとえば、「萌え」というテーマは、複数の表現ジャンルを許すだろう。「なにが表現されているか」は、「どう表現されているか」とは独立だからだ。実例を挙げるのが早い。萌えたいときに手元に萌えアニメがなかったら、代わりになるのは萌え漫画であって『火垂るの墓』ではない、ということだ。
 まずテーマが明らかにならなければ、「エンタメ批評」は成立しない。テーマそのものについては、娯楽作品なので、基本的には個々人の趣味まかせである。ただし、「眼鏡にねこみみは邪道だ」というように、テーマの選択のレベルでも「エンタメ批評」が成り立つ場合もありうるのだが。
 私が見るところ、この点が比較的よく認識されているのがエロゲーレヴューである。多くのレヴュアーが、自分の嗜好が、泣き萌え燃え抜きのどこにあるのかを明示したうえで語っている。だからわかりやすい。
 混乱が多いのはアニメ感想であろうか。アニオタはアニメであればなんでも観る。そして、アニメであればなんでも一つの基準で評価できるかのように語る傾向がある。そのため、萌えアニメのドラマの不在を大仰に嘆くような、的外れな毒舌ごっこに走りがちなのだ。(萌えを軸にした「エンタメ批評」はキャラクターの魅力に特化して語るのが基本であろう。)

「どう表現されているか」

 「なにが表現されているか」が確定されたとしよう。そのテーマをどのように具体的な作品に表現するか、を論じることができる。ここに「エンタメ批評」が成立する。
 注意すべきは、表現を扱っていながらも、表現そのものの価値を扱っているのではない、ということだ。あくまで特定の題材を適切に表現できたかどうかが問われる。つまり、問題になっているのは、目的合理性であり、技術の巧みさである。
 アクションで楽しませたいのであれば、こうすべきだ。ミステリーで楽しませたいのであれば、こうすべきだ。触手エロを表現したければ、こうすべきだ。眼鏡っ娘萌えを表現したければ、こうすべきだ。このように、一定の条件のもとでの表現のあり方を考えていくのである。ストーリーやプロット、キャラクター設定の位相から、個々のシーンの表現まで、すべてが目的合理性のもとで評価されるのである。
 この意味で、「エンタメ批評」は、娯楽作品のクリエイターの創作方法論とかなり並行した議論を展開することになる。
 娯楽作品を創作する際にまず見据えるべきは、その娯楽作品を欲する人々の欲望であろう。それとまったく同様に、娯楽作品を論じる際にまず見据えるべきは、その娯楽作品を欲する我々自身の欲望なのだ。そして、そこから先は、すべて「その欲望をどれだけ満たしえたか」という目的合理性によって判定されるのである。
 「我々はなにを求めているのか」、そして「なにが表現されているか」を消去して、娯楽作品を語ることはできない。
 もちろん、個々のいわゆる娯楽作品が芸術的価値をもちうることを否定しているわけではない。そして、娯楽としての価値に加えて芸術的価値をもつことは、たいへんに結構なことであろう。以上は、あくまで娯楽作品の解釈の方法論についての主張であることを強調しておきたい。

「批評」批判

 多くの「表現の批評家」に足りないのは、この「なにが表現されているか」という縛りについての意識である。「批評」を試みる者の多くが、表現そのものを扱おうとするがゆえに、この縛りを無視ないしは軽視してしまう。芸術ならばそれでも語れる。芸術は自らの外部に目的をもたないからだ。しかし、娯楽作品を語る場合には、それでは駄目だ。娯楽作品は、一定の目的をもつものであり、芸術ではなく技術の産物なのであるから。
 漫画「批評」やアニメ「批評」には、ある作品から一部のシーンを切り出して、そこで使われている技法を語るだけで終わってしまっているものがある。そういった「批評」が場当たり的で薄っぺらいものにしかならないのは、「なぜそのシーンを語らねばならないのか」という必然性が見えてこないからだ。娯楽作品としてのテーマを見失ってしまうと、恣意的に拾い上げた表現技法についてとりとめもなく語る以外にすることがなくなってしまうのである。

ゲーム批評の特殊性

 ところで、一つ特殊なジャンルがある。ゲームである。ゲームのゲーム性は、「なにが表現されているか」ではなく「どう表現されているか」にかかわるものであろう。ゲーム性重視でゲームを批評することは、娯楽作品を扱っているにもかかわらず、「エンタメ批評」の論理には乗ってこないのである。
 これは、「ゲーム」という概念が実は一つの表現のジャンルを指しているのではない、ということに由来する。ゲームにおいては、ゲームシステムが異なるかぎり、一作一作がそれぞれ一つの表現のジャンルをなしている、と解釈すべきなのだ。
 一方、ゲーム性ではなく、シナリオなりキャラ萌えなりで評価する場合には、「エンタメ批評」が有効である。このあたりの事情ゆえに、ノベルゲーの批評は、一般的なゲーム批評と論理を異にするのである。

おわりに

 つまり、漫画やアニメに「批評」を導入するということは、娯楽作品としての諸々の猥雑な含みをこれらのジャンルから切り捨てる、ということなのだ。その覚悟なしに「批評」を云々するのは混乱するので止めたほうがいい。たとえば、萌えや燃えは「批評」においては位置をもちえない。それを語りたければ、「エンタメ批評」などに向かうしかない。
 あくまで娯楽作品としての漫画やアニメを語ろうとするのであれば、ジャンル固有の論理を必要以上に強調すべきではないのである。それぞれのジャンルは、娯楽作品にとってはたんなる手段にすぎないのだから。
 繰り返しになるが、「エンタメ批評」は狭義の「批評」とは異なる。
 どれだけ金を産み出すか、という商業評価とも異なる。
 また、マニア的な語りとも異なる。マニアックな語りは目的合理性には回収しえない。作品全体の文脈を無視して部分に執着したり、作品の破綻をあえて楽しんだりする屈折した視点は、「エンタメ批評」にはない。マニア的な語りは本稿での「批評」に近いものになるだろう。(いわゆる第一世代的なオタク活動はマニアックな語りに親和的である。私が第一世代をオタクの典型から除外するのは、このような文脈も背景にある。)
 さらに注意していただきたいのは、「エンタメ批評」が私が定義するかぎりでのオタク的な営みとも異なる、ということだ。私にとってのオタクは、批評する存在ではなく、妄想する存在であるからだ。
 もちろん、具体的な場面では、以上に挙げたの視点が混在することはあるだろう。しかし、基本的には、「エンタメ批評」は独特の位置をもつ。娯楽作品を娯楽として楽しむためには、これを見失ってはならないのである。

……おまけ……

補論・「批評」における混乱の一例

 ここで、漫画「批評」の試み、伊藤剛『デヅカイズデッド』を参照してみよう。この本、「表現の批評家」たちには評判がいいようだ。たしかに、先行言説を批判する箇所はよく書けていると私も思う。しかし、伊藤の積極的な主張には、どうやら深刻な混乱があるようだ。
 伊藤の議論は、とにかく「どう表現されているか」と「なにが表現されているか」、「表現」と「表現の対象」を混同することにおいて成立している。彼の議論の中核をなす「キャラ/キャラクター」の区別を検討してみよう。
 そもそも伊藤は以下の二つの事態を混同しているようだ。
 (1)複数の絵がなにかある同一の対象についての絵として認知される。
 (2)その対象が、描写の対象として魅力をもつものとして評価される。
 これらはまったく別の事態である。(1)は「表現そのもの」の認知上の成立要件にかかわるが、(2)は「表現の対象」の価値上の評価要件にかかわるものである。しかし、伊藤はこれらを区別していない。簡単に言えば、(1)絵が絵として成立するには(2)描かれているものが魅力的でなければならない、ということになってしまっているようなのだ。これはどうにもおかしい。
 そもそも伊藤の「キャラ」概念は、複数の諸表現を同一の対象を描いた表現として認知する場面にそくして導入されている。つまり「キャラ」概念は「表現そのもの」の成立要件に属するものである。
 それにたいして、彼の「キャラクター」概念(および「マンガのおばけ」概念)は、その表現で「なにが表現されているか」あるいは「表現されているものに魅力はあるか」を論じる文脈で導入されている。つまり、「表現の対象」にかかわるものだ。
 これらはまったく問題になる位相が異なる概念である。しかし、それにもかかわらず、伊藤はこれらの概念を信じられないほど不用意に交差させてしまう。そして、それゆえ、話の展開がよくわからなくなってしまうのである。
 では、この混同はどうして起こったのだろうか。
 これは、伊藤がまさに漫画を「批評」しようとしたことに由来するのではないか。
 漫画というジャンル固有の「批評」をしようとするあまり、伊藤は「表現そのもの」の成立要件に特化しすぎた地点から出発した。そのために、後からテーマにかんする語りを密輸入する必要ができてしまったのだ。こういう無理を通すために、無用の新語を導入し、二重三重のカテゴリー錯誤を犯さざるをえなくなってしまったのだろう。もちろん、特定の作品の特定の箇所において、「表現」と「表現の対象」が連関することはありうる。しかし、それを語るのに、新しい概念対を導入する必要などはないのである。
 ついでに言えば、「萌え」などを作品そのものの構造から説明しようとしたことも伊藤のマズいところだと思うのだが、この点にかんてはここでは論じない。

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