本田透『電波男』を読む

0 はじめに

 やっと暇ができて、本田透氏(以下敬称略)の『電波男』を読むことができた。話題の一冊なので不要かとも思うが、一応書誌情報を記しておくならば、下記のようになる。
 本田透、『電波男』、三才ブックス、2005年。
 誠実な思考に貫かれたよい思想書である。私のオタク論とも交差する論点がいくつかあり、たいへんに刺激になった。
 ということで、『電波男』を論じてみたい。今更私が褒めても仕方がないので、ポイントを絞り、その問題点を指摘することになる。

1 『電波男』の思想

 『電波男』には様々な論点が盛り込まれている。では、主張の核は何か。論理的な構成を整理してみよう。
 私の見るところでは、『電波男』の基本的な志向は恋愛論、「純愛至上主義に基づく恋愛資本主義批判」にある。
 「キモメンの人生論」という要素も強い。しかし、これは、「キモメンの視点が恋愛資本主義の虚偽性を痛烈に暴露するものである」がゆえに重要にとなる、副次的な論点と考えられる。「純愛至上主義に基づく恋愛資本主義批判」はキモメン以外の人々をも解放する思想であり、その射程や重要性はより大きいものである。
 さらに、「萌えを核としたオタク論」および「オタク的生の称揚」もまた、副次的な論点であると考えられる。本田の立論では、「恋愛資本主義に毒された現在の現実社会では到達しえない純愛が存在しうる場」として「萌え」はその価値をもつとされている。つまり、「オタク的な萌え」はあくまで「純愛至上主義を実現させるための手段」として評価されている。『電波男』のオタク論は、つねに「純愛至上主義に基づく恋愛資本主義批判」という文脈において語られている。
 さて、本稿では、『電波男』をオタク論の観点からのみ検討する。
 上にまとめたように、『電波男』において、オタク論はかならずしも中心的な位置を占めてはいない。それにもかかわらず、このような戦略を採る理由は、端的に私の側の事情である。
 恋愛資本主義の問題にも興味がないわけではないが、きちんと論じようとすると、八十年代論を含む現代社会批評という課題に立ち入らざるをえない。これは現在の私にとっては少々荷が勝ちすぎる。一言だけ付け加えておけば、恋愛論をやっているわりにはジェンダーの問題などへの配視が甘い点が気になる。批評としては全体的にいささか弱い感がある。
 また、キモメンの人生論については、本田の論に共感しないこともないので、さしあたり付け加えたいことはない。
 こういうわけで、ちょっと読み方としては反則になるが、オタク論としての『電波男』を検討することにしたい。
 ということで、批判的読解の作業に移行する。
 私の立場からすると、『電波男』のオタク論は「純愛至上主義に基づく恋愛資本主義批判」という主題に引きずられて、いくつかの難点を孕んでしまっている。

2 オタク的妄想固有の快楽を無視してはいないか

 本田はオタク的妄想の素晴らしさを説く。その論理は以下のようなものである。
 資本主義的恋愛も二次元の恋愛妄想も、妄想に基づいているという点で差異はない。しかるに、恋愛資本主義に侵食された三次の恋愛(モドキ)には純愛が存在しにくい。一方、二次の妄想には純愛が存する。ゆえに、オタク的萌え妄想は素晴らしい。
 この主張は一定の説得力をもつ。しかし、疑問もある。
 先にも指摘したが、この論証においてオタク的妄想は純愛至上主義の観点から評価されているわけだ。まず純愛至上主義があって、それにもっとも適合する営みとして、オタク的妄想の優越が主張されている。
 しかし、だ。これでは、オタク的妄想は純愛成立の手段としてのみ価値をもつ、ということになりはしないだろうか。
 そうなるとおかしい。我々がオタクであるのは、オタク的な営みが端的に楽しいからではないのか。そもそも趣味というのは楽しいからやるものである。趣味はそれ自体が目的でなければならない。なにかのための手段になった瞬間に、趣味は趣味でなくなる。釣り好きが釣りをするのは、端的に釣りが楽しいからであろう。魚を食べるために釣りをする人間について、釣りが趣味だとは言わない。オタクについても事情は同様だ。たとえ純愛のためであっても、妄想を手段の位置に置いてはならないのである。オタク的な妄想には、他の様々な趣味と同様に、固有の価値、固有の快楽がある。オタク的妄想の本質は、まずはその固有性に求められるべきである。
 純愛至上主義に基づく本田の議論は、オタク的萌え妄想が資本主義的恋愛よりも倫理的に正しいことを証明するのには成功しているだろう。しかし、その副作用であろうか、趣味としてのオタク的妄想を内在的に理解し定式化するという観点に欠けるのである。
 そのため、本田のオタク論は、オタクの重要な特性のいくつかを取り逃がしてしまっている。

3 正義の燃えを無視してはいないか

 純愛至上主義が出発点にあるがゆえに、本田はオタク的妄想を「萌え」、とりわけ「純愛系萌え」の観点からのみ考える傾向がある。
 しかし、オタクが求める価値は「純愛」だけではない。たとえば「純粋な正義」や「純粋な友情」もまた、オタクが妄想において追い求める価値ではないだろうか。本田は三次では成立しえない純愛を二次で追求する。それはいい。しかし、同様に、三次では成立しえない純粋な正義のヒーローの姿を二次において求める「燃え」オタクも存在することを忘れてはならない。
 本田は燃えオタを萌えオタの歴史的な前段階に置いているようだ。しかし、「燃え」を歴史的な遺物として扱うことには納得できない。燃えオタは萌えオタに比して数こそ少ないが、いまだ現役としてきちんと存在している。たしかに七十年代に比して特撮の勢いはなくなった。八十年代に比してロボットアニメの勢いはなくなった。しかし、だからといって、「萌え」だけからオタクを定式化するのは行きすぎというものだ。「燃え」やその他の要素も含めた、妄想一般からオタクは語られるべきであろう。

4 エロ妄想の存在を無視してはいないか

 「純愛」を強調することは、別の難点をも導く。
 本田は、オタクの妄想の動機を基本的に「純愛の追求」に置く。しかし、実際問題として、オタクが現実に行う萌え妄想は、純愛系のものばかりではない。ミもフタもないエロ妄想も多い。純愛、エロ、さらには鬼畜外道陵辱に至るまで、オタクの妄想の範囲は広範囲に及んでいるのだ。そして、そのどれもが妄想として面白いのであり、それなりに評価されるべきものなのではないか。
 本田は純愛妄想のみを特権的に評価している。しかし、この立場は妄想内容の「倫理的な正しさ」と妄想行為の「楽しさ面白さ」とを混同したもののように思える。私は、オタク的妄想は善悪の彼岸にあるからこそ楽しいのだ、と考えている。「燃え」においては、正義のヒーローだけではなく、悪の組織の邪悪な戦士たちもカッコイイものとされる。同様に、「萌え」においてもインモラルな妄想や邪悪な妄想の価値を低く見積もってはならないだろう。
 オタク論の文脈では、純愛妄想の快楽はあくまで妄想の快楽一般の一例として位置づけられるべきであり、これを特別視すべきではない、と私は考える。

5 市場原理を過大評価してはいないか

 最後に『電波男』の描く未来予想図を検討したい。本田は恋愛資本主義の敗北と、オタク的生の勝利を謳いあげる。しかし、一つ気になるのは、オタクの勝利の論拠として本田がたびたび「萌え市場の成熟」に言及することである。
 問題は単純だ。いくら萌え市場が大きくなったとしても、駄作ばかり増えていたのであれば意味がないのである。たしかに萌え関連の市場はかなりの規模のものとなっている。しかし、これは、オタクの勝利を即帰結するものではない。三次の恋愛が資本主義に毒されたように、二次の「萌え」もまた資本主義に毒される可能性がないとはいえないのだ。
 本田は「あかほりシステム」をイケメンによるキモメンの搾取システムとして批判する。しかし、「あかほりシステム」の根本的な問題はそこではなかったはずだ。金儲けを目的に、つまらない萌え狙い作品を粗製濫造したことこそが、「あかほりシステム」の最大の問題点だったはずだ。 「あかほりシステム」に代えて「ほんだシステム」を、という本田の主張は、この根本的な問題については先送りにしただけに終わってしまっている。キモメン同士が搾取しあうなか、どんどん萌え狙い駄作が増産されていく、という負のスパイラルが成立しないとも限らないのである。あくまで可能性ではあるが。
 恋愛資本主義の搾取構造を打破することは、オタクの勝利のための必要条件であろう。しかし、それはあくまで必要条件であり、十分条件ではない。どうしたら質のよい萌え作品を増やせるか、ということもまた重要な課題であり、これは市場の話だけでは済まないのである。
 どうやら本田が志向するオタクの姿は、「資本主義をも乗りこなし、萌え表象を軽やかに消費しつづける」というもののようだ。一方、私は、「萌え」においてすら「濃さ」を追求すべきだ、という立場である。やはりそのほうがオタクとしての深い快楽が得られると信じるからだ。私には、本田の論はヌルさの安易な肯定を導きかねないものと映るのである。

6 おわりに

 以上、『電波男』のオタク論の問題点を検討してきた。しかし、すでに述べたように、本稿は『電波男』の一部を取り上げて論じたものにすぎない。
 現在、オタクを巡る言説はそこらじゅうに溢れている。しかし、そのほとんどは、悪意と偏見に満ちたどうしようもないものだ。
 『電波男』の醍醐味は、それらの諸主張を打破する論理の鮮やかさにある。また、その過程で行われる、小説映画漫画からリアル殺人鬼の遺書まで、多種多様なテキストの大胆な読み直しもなんとも刺激的だ。新しい批評の実践としての面白さは賞賛に値する。
 本稿で指摘したオタク論におけるいくつかの問題点は、『電波男』という著作の価値をいささかも下げるものではないことを強調して結びとしたい。

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