長谷川裕一の少年漫画道

はじめに

 お前が一番信頼している漫画家を六人挙げろ、と言われれば、まず真っ先に私は長谷川裕一の名を挙げる。端くれではあるが、まあ信者といってもよい。同時代に生まれ、その作品を読むことができることが本当に幸せだ。
 長谷川裕一のどこに惹かれるのか。私の場合はこうだ。
 長谷川作品には、一貫した理念がある。「アツい少年漫画とはかくあるべきだ」という思想が、すべての作品に一本ビシっと通っている。だから、その思想に心から共感できる者にとっては、彼の作品はほとんど外れなしに燃えるものとなるのだ。
 本稿では、そんな「長谷川裕一の燃え思想」を、彼の主要な作品を通覧しつつ、私なりにまとめてみたい。
 論考の性格上、一部ネタバレを含む箇所があるので、注意していただきたい。

長谷川思想とは何か…『機動戦士VS伝説巨神 逆襲のギガンティス』

 「長谷川裕一の燃え思想」がもっとも明快に読み取れる作品は、『逆襲のギガンティス』であろう。
 ちょっと特殊な作品なので未読の方むけに説明しておけば、ガンダムとイデオンをシリアスなドラマのなかで対決させつつ、富野由悠季論を展開する、という、とんでもない名作にして問題作である。富野由悠季については色々論じられているが、この作品はもっとも優れた富野批判の一つである。そして、富野論という性格をもつがゆえに、長谷川イズムもわかりやすいかたちで提示されているのである。
 劇中のクライマックスの台詞に以下のようなものがある。編集しつつ引いてみよう。

 「死んだ者は何もしない…何もできない」「だから」「だからこそ」「命が…そのひとつひとつがっ…大切なんじゃないのか」「これは…これはおれの力だ」「生きている者の力だ」

 主張は明快である。
 生者の論理は死者の論理に優先する。
 また、生と死、ということを、もう少し一般的に表現すれば、こうなる。
 未来性は過去性に優先する。
 これである。
 私は、この思想こそが長谷川裕一の核心である、と考えている。

代表作を読む…『マップス』と『轟世剣ダイ・ソード』

 「生者の論理は死者の論理に優先する」、そして「未来性は過去性に優先する」。
 これらが本当に「長谷川裕一の燃え思想」と呼べるものなのか、彼の代表作にそくして検証してみよう。
 まずは日本スペースオペラ史上に燦然と輝く名作『マップス』から。
 敵であるブゥアーの本質は、「過去のデータの蓄積」であり、いわば、「死者たちの記録」である。それにたいして主人公のゲンがクライマックスでぶつける論理は、「今俺たちが生きている」「それ以上に大切な歴史などありはしない」というものである。
 さらにまた、ラストのラストでようやく解ける「予言」の真実なんかも思い出してもらいたい。「過去による未来の可能性の制約」と思われていた「予言」が、一転、「無限の未来の大冒険」を指し示すものであったことが明らかになるわけだ。この瞬間のなんというカタルシス。
 これまた快作、『轟世剣ダイ・ソード』にも目を向けてみよう。
 『ダイソード』のクライマックスはあそこだ。サンジュオウの破片を組み込み鍛え直すことで復活したダイソード。そして、最後の戦いに向かうわけだ。ここでダイソードが王太に改めて言うのだ、「共に戦ってはくれないか」、と。
 つまりね、これまでの王太とダイソードとの共闘は、“神”の呪い、つまりは「過去」による束縛に支配されていたものだったわけよ。でもね、ここからはそうじゃないのだ。王太とダイソードは「未来」を拓くために、友情の絆で共に戦うのだよ。
 あの「絆の結び直し」という至高の名シーンも、先に示した長谷川イズムの一展開と解釈できるのだ。
 そして、それに呼応するかのように、大団円の後の別れの台詞は、王太の「今は前にすすまなきゃいけない」そして「ここに残ることは進むことじゃない」というものになっているわけだ。
 このように読むと、長谷川裕一作品は、つねに「生者の論理は死者の論理に優先する」「未来性は過去性に優先する」という思想に貫かれているように思えてはこないだろうか。

路線の建て直し…『クロノアイズ』から『クロノアイズ・グランサー』へ

 いくら信者とはいえ、長谷川作品すべてが欠陥のない超傑作だ、とまで主張する気はない。たとえば、わりと最近の『クロノアイズ』などは、少々話に疾走感や爽快感が欠けていたのでは、と思っている。ただ、やはり長谷川裕一は只者ではない。続編『クロノアイズ・グランサー』できちんと路線を建て直してしまった。
 この路線の建て直しについて、解釈を与えておこう。
 これまでの議論から、『クロノアイズ』という作品にはかなり本質的な難点があったことが理解できる。
 『クロノアイズ』はタイムトラベルに伴うパラドックス、という古典的なSFのテーマを扱っている。たしかに興味深いテーマではある。しかし、ここに原理的な落とし穴があったのではないか。
 これまで確認してきたように、長谷川裕一の燃えは「生者の論理は死者の論理に優先する」、または「未来性は過去性に優先する」ということに基づいて成立するものである。
 しかし、だ。タイムトラベルを扱う、ということは、「生者」と「死者」、「過去」と「未来」が入り混じる状況を舞台とする、ということであろう。このため、『クロノアイズ』においては、「生者の論理」と「死者の論理」、「未来性」と「過去性」を単純明快に対決させることが難しくなってしまったきらいがあるのだ。パラドックスの処理に頑張っているのはわかる。しかし、それでもなんとなく歯切れの悪いモッサリした作品になってしまった理由はそのへんにあると思われる。
 そして、面白いのは、『グランサー』において、この難点が見事に解決されているという点である。
 『グランサー』はわかりやすく長谷川節である。対決軸は明快だ。過去に徹底的に囚われた男としての、千界の王グリーナム。それに対する、未来へ向かう主人公タイキ。これまで確認してきた基本構図がこれでもか、というくらいに強調されている。無印と同様にタイムトラベルを扱いつつも、「未来性」対「過去性」という時間性の対比は鮮明なままに残してあるのだ。上手い、としか言いようがないではないか。
 こういうわけで、『クロノアイズ・グランサー』という作品は、長谷川的燃えを存分に展開することができた。これが私の解釈である。

「少年であること」の肯定…『鉄人28号・皇帝の紋章』

 次のような反論が予想できる。長谷川作品に一定の特徴が共有されていることはわかった。しかし、それが長谷川作品に固有の特徴である、とはまだ言えない。みんなそうかもしれないじゃないか。
 このような反論に答えるために、『鉄人28号・皇帝の紋章』に目を向けてみよう。この作品を、同じく2004年の鉄人リメイク、今川泰宏の監督によるアニメ版と比較してみたい。
 横山光輝の『鉄人28号』を現代においてリメイクする場合、焦点となるのは、金田正太郎の位置づけであろう。コドモなのにピストルもってクルマのりまわすわけである。このキャラをどう解釈するか、ここが見どころ読みどころなわけだ。
 そして、本稿の場合、着目すべきは、「大人」と「コドモ」、つまりは「大人」と「少年」をどう対比させているか、という点であろう。
 長谷川版『鉄人』の立場は明快である。
 「少年の論理」は「大人の論理」に徹底的に優先するのだ。
 少年の視点と大人の視点が対立したときには、つねに誤っているのは大人の視点である。正太郎の少年であるがゆえの青臭い信念は、青臭いがゆえに、実は正しいのである。変わるべきは、徹頭徹尾大人のほうなのだ。これが長谷川版だ。
 一方、今川版は少々異なる。今川版の『鉄人』は、正太郎の成長物語、という契機を含んでいる。つまり、少年は大人に成長すべきものである、という価値観が今川版にはある。これは、「少年の論理」は「大人の論理」に必ずしも優先するものではない、という立場を意味していよう。
 長谷川版と今川版の間には、このような差異があると思われる。
 さて、これまで、「生者の論理」と「死者の論理」、「未来性」と「過去性」という対立軸で考えてきた。これをまたもう少しズラし、「少年の論理」と「大人の論理」という対立軸にすることができるだろう。
 もうおわかりだろう。長谷川裕一は、徹底的に「少年の論理」を優先する。このことは、これまで見てきた「生者の論理」および「未来性」の優越と、一貫した連関のもとにあると考えられるのだ。「過去」や「死者」のしがらみを背負っている「大人」よりも、「未来」を見据えている「生者」たる「少年」のほうが優位にある、というわけだ。これはたとえば今川泰宏には見られない特徴である。長谷川裕一は、今川泰宏のような少年から大人への成長物語は描かない。少年は少年のままに前を向いて進むべし、というのが長谷川節なのである。

おわりに

 まとめておこう。
 私はいろいろな論考で「燃えるためには作品に理念がなければならない」と述べておいた。それはつまり、作品に「アツい少年漫画とはかくあるべきだ」という、規範についての信念、思想が流れていなければならない、ということだ。
 そして、長谷川裕一の場合、具体的には「生者の論理は死者の論理に優先しなければならない」とか「未来性は過去性に優先しなければならない」といった信念が、それにあたると思われる。
 長谷川裕一の信者には、信者当人が自覚しているかどうかは別として、この信念に共感し惚れこんだ連中が多いのではないだろうか。
 私はまあ死ぬまでついていくつもりである。

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