「翻り」の美学

はじめに

 アクション映画において、なにが本質をなすのか。
 「翻り」「ひるがえり」である。
 翻りこそが動きの真髄。アクション映画を観るのならば、翻りを観なければならない。
 したり顔をしてストーリーの粗や設定の不備をいいたてて、それを知的な批評と勘違いしている者も多い。笑止千万である。
 ストーリーがよければいい、設定が緻密であればいい、これは間違いではない。しかし、これらはあらゆる映画について、あらゆる物語について言えることである。つまらない切り口だ。アクション映画を語るのならば、アクション映画ならではの観点で斬らねばならない。それができない者に語る資格はないのだ。

ジョン・ウーの翻り

 ジョン・ウーは、裾だ。黒いスーツ、コートの裾を翻らせる。
 チョウ・ユンファが懐に両手を無造作につっこみ、二丁のガンをごぞり、と抜く。そのときに、彼の上着の裾が、ぶわ、と翻る。
 二丁のガンを撃つ。またもそれに合わせて翻る裾が空間を切り裂く。
 これだ。ここに私は痺れる。二丁拳銃はそのままでは絵的に重い。両手の先に鉄の塊がぶら下るがゆえに、上半身が鈍重に見えてしまう。そこで裾である。翻る裾が身体運動の崩れかけた絵的なバランスを回復させている。ユンファ撃ちが電光の閃きを放つのは、このゆえだ。
 なぜジョン・ウーのクライマックスはつねにスーツやコートなのか、を私はこのように解釈している。

スティーヴン・セガールの翻り

 セガールが翻すのは、手だ。手のひらだ。
 セガールの腕は長い。その長い腕の先に、馬鹿でかい手のひらがある。
 その手のひらが、翻る。無造作に翻る。
 その翻りが敵を倒す。無造作に倒す。翻りが無造作だから、敵も無造作に倒れる。
 セガール流合気の説得力は、この翻りの素っ気無さにある。虚飾は不要。でかい手のひらが端的に敵を薙ぎ倒す。捻り潰す。
 投げるときはもちろん、当て身の際も、翻る。拳を握り続けてはならない。それでは翻りが滞る。手刀、掌底、貫手を翻らせつつ、打つ。
 これが、たまらない。

リベリオンの翻り

 ガン=カタもまた翻る。身体が一つの翻りと化すのだ。
 銃を撃つときも、ただ手を差し出して撃つのではない。身を翻して撃つ。
 刀による斬撃も、ただ腰を割って斬るのではない。身を翻して斬る。
 全身が翻る。これがガン=カタの美学である。
 もう少し細かいところとなれば、袖の翻りに着目されたい。クラリックコートの袖口は、翻るごとにガンやバックアップのマガジンを出現させる。我々の眼は否応なしに袖口に引き寄せられる。この袖がガンの捌きとともに踊る。
 これがガン=カタにえもいわれぬ彩を与えている。

ダイ・ハードの翻り

 最後にちょっとひねった事例を挙げよう。
 ダイ・ハードのアクションは基本的に翻らないもののように見える。マクレーンは血と汗にまみれボロボロになり、泣き言を吐きながら走る。ここに優雅で華麗な翻りはない。無骨で不器用、だが必死の戦いがある。これがダイ・ハードの魅力の一つであることは否定しない。
 しかし、それだけではない。やはり翻りが要をなすのだ。
 ラストの対決、たった二発だけ残った弾丸で二人を斃す、ブルース・ウィリスのベレッタ捌きの見事さを思い出して欲しい。
 これぞ翻り。タメてタメてタメて、最後の最後で恐るべき翻りのアクションが弾けるのだ。
 このカタルシス。思い出すだけで鳥肌が立つ。

おわりに

 もちろん翻らないで魅せるアクションの流儀もある。翻りだけでアクションのすべてを語るつもりはない。とくに日本刀の殺陣について言えば、翻らないほうが正しいとも言える。また、翻るだけで良い作品燃える作品ができあがる、と主張したいわけでもない。
 しかし、ことアクションの美しさということになれば、やはり翻りを強調せざるをえない。いくら金をかけようがCGに凝ろうが、翻りのない動きは醜いのである。
 また、言うまでもないことであるが、ただ形だけ翻っていればいいというものではない。魂のない翻りは滑稽なだけだ。敵を屠る行為そのままに翻らねばならない。ひとたび翻りが見世物の舞踊に堕落した、と見なされてしまえば、そこにはもはや武術戦闘術にたいする冒涜の感覚しか残らない。生きた翻りこそが美しい。
 殺伐とした戦いの最中に、突如として咲く翻りの凄絶な美。
 これを愛でずになんとする。

 まあ、書くまでもない情報なのだが、一応。
『男たちの挽歌2』(1987年) 監督:ジョン・ウー。
『暴走特急』(1995年) 監督:ジェフ・マーフィ。
『リベリオン』(2002年) 監督:カート・ウィマー。
『ダイ・ハード』(1988年) 監督:ジョン・マクティアナン。

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