『月詠 -MOON PHASE-』の自虐はどこへいった

 たまには時流に合わせた話題を語ってみたい。有馬啓太郎の『月詠 -MOON PHASE-』がアニメ化された。OPなどがチョイと話題になったりしている。私も観てみたので、感想を少々。

 結論から言えば、原作に私が感じた面白みは、アニメ版では後退してしまっている。ただし、これは仕方のないことなのかもしれない。

 そもそも私が有馬啓太郎に興味をもったのは、別名義で描いていた『エロ漫王』を読んでのことである。エロ漫画業界の裏話暴露系のギャグ漫画、ということになろうか。
 この作品が素晴らしかった。
 オタクのエロにまつわる営みをブッタ斬って笑わせる手並みが、なかなかに見事であった。さらに、全編に一貫して、強烈な自虐の感覚が流れているのが、またよく効いていた。一段上から自分を守りつつ笑うのではなく、きちんと自分をも斬っている。センスいいなあ、と感服した覚えがある。

 この自虐の感覚が重要である。
 私が思うに、有馬啓太郎が『月詠 -MOON PHASE-』で描く萌えには、つねに自虐の生々しさがつきまとっている。
 端的に言えば、「自分はロリコンだよ、少女愛好者だよ、悪いか」という痛々しい開き直りが見て取れるのである。
 そして、そのイタさ生々しさが、なんともゾワゾワ面白いのである。

 ここで比較のために、赤松健の漫画を考えてみよう。
 赤松イズムの核心は、読者の好む萌えを提供することにあると思われる。商売人が、売れ筋の萌えを大売出しにしている感がある。
 それゆえ、赤松の描く萌えは、浅いオタクに広く消費される。しかし、いまひとつ教科書的であり、狂気や深みに欠けるのである。

 ところが、有馬啓太郎の場合は異なる。
 『お気楽極楽ノストラざまス』しかり、『月詠 -MOON PHASE-』しかり。奴は自身のつるぺた美少女にたいする欲望をさらけ出して描いている。
 読者の好む萌えを描いているのではない。自分が最も萌えるモノをただ直球で描こうとして、ああなっているのだ。端的に言えば、一般向け商業誌で本気の自慰行為をやってしまっているのだ。とんでもない自虐行為である。
 だからこそ、ヒロイン葉月は、ベタな属性のカタマリであるにもかかわらず、生なエロさを纏う。有馬啓太郎の煩悩がこれを支えているのである。
 漫画版『月詠 -MOON PHASE-』の面白さはここにあると思われる。

 というわけで、アニメ版の感想をば。
 私は、漫画版を上述の観点から読んでいたから、アニメ版には、なんとなく違和感を覚えた。
 『月詠 -MOON PHASE-』の面白さは、とにかく有馬啓太郎という個人の病んだ欲望が透けて見えるところにあった。しかし、複数のスタッフによって広く萌えオタに向けて制作されるアニメ版になって、このイタい生臭さが消えてしまったのである。
 なんかフツーのよくできた萌えアニメになってしまったのだ。これはまあ、アニメ化の性質上、不可避なことなのかもしれない。
 しかし、言わざるをえない。
 たしかによくできている。
 でも、ちょっと物足りないなあ。

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