スポーツ漫画としての川原泉「銀のロマンティック…わはは」

 スポーツを主題にした漫画は多い。しかし、スポーツ漫画には原理的な困難がある。
 そもそもスポーツを観るのがなんで面白いのか、と言えば、我々の常識を裏切るような動きを見ることができるからである。
 数字や勝敗、選手のキャラクターにだけしか興味ない人を、スポーツを観ることができる、とは言わない。そのスポーツのプロフェッショナルたちの動きの凄さ、これに感動できなければどうしようもないのである。
 ところが。スポーツ漫画は漫画である。漫画のキャラクターは、どんな動きでもできてしまう。
 スポーツにおける動きの凄さは、オレたち普通人はこんなことできねー、という理解を前提としている。そこにプロの凄さがある。しかし、これは現実世界だからこその論理。漫画の中では成り立たないのだ。

 ということで、スポーツ漫画は、スポーツ観戦の本来の面白さとは別のところに面白さをつくろうとする。
 勝利のための努力だとか、ライバルとの関係だとか、いわゆるドラマ性に面白さを求めるのだ。
 いうまでもないことだが、ドラマ性はスポーツ観戦の本質をなすものではない。選手たちの名前も思想も、その試合の位置づけも、まったくなにも知らなくてもよい。とにかくそこに素晴らしい動きの瞬間があるかどうかが重要なのである。陳腐な表現であるが、スポーツは筋書きのないドラマなのだ。
 ところが、多くのスポーツ漫画は、とにかく筋書きのあるドラマでの感動を追求している。しかし、この方向で頑張れば頑張るほど、スポーツを観る喜びからは離れてしまう。たとえば、よくある「真面目な努力が実ってめでたく勝ちました」物語は、スポーツにおいては、部活の論理、つまりはアマチュアの論理でしかない。別にアマチュアスポーツの論理が面白くない、と主張するわけではない。しかしながら、少なくとも我々は天才的な動きを観るためにプロスポーツを観戦するのだ。そこにはどうしてもズレがある。
 このへんに、スポーツ漫画の原理的な難しさがあるわけだ。

 さて、本題。
 川原泉「銀のロマンティック…わはは」は素晴らしい。
 なぜ素晴らしいのか。身体運動の瞬間こそが至上価値をなす、ということを、まさにそのままドラマのクライマックスで描き出しているからだ。
 スポ根的なアマチュアスポーツの論理の要素も確かにある。人間ドラマの展開も上手い。しかし、そこにこの作品の本質はない。
 人間の身体が創り出す奇跡のような運動の軌跡が、生まれ、そして消えていく瞬間。ラストの数ページで、まさにこの瞬間が描かれる。すべてがこの瞬間に収束する。そこには、もはや勝敗はない。美さえも問題にならない。ただただ純粋な幸福だけがある。ここに核心を見てとるべきである。
 スポーツ漫画が、スポーツと正面から対決して超えてみせた、ほとんど唯一の例ではないか。
 正直、私はスポーツ漫画も現実のスポーツ観戦もあまり好きではない。ただ本作を読んだときだけ、なんかこうスポーツの理想型を見せてもらった気がして、フィギュアスケートはいいなあ、と思うのだ。
 それほど「銀のロマンティック…わはは」は素晴らしいのである。

 最後に、スポーツ漫画について一つ教訓を引き出しておこう。
 スポーツ漫画が、スポーツをダシにして人間ドラマを描こうとするのではなく、まさにスポーツを描こうをするならば、短編か中編という形態を採らざるをえない。まさに「銀のロマンティック…わはは」のように。
 先に指摘した「その瞬間」を描いた時点で、あとはすべて蛇足になるはずだからだ。長編スポーツ漫画など、実は厳密な意味では成立しえないのである。

 本稿のような方向でのスポーツ観戦論は実はわりとありふれたものである。
 しかし、オタク的な立場を徹底するならば、このようなスポーツの観方は面白いものではないとされるのかもしれない。徹底的に選手をキャラとして扱い、その背後に物語を読み込みまくって楽しむ、という観方こそが、オタクに親和的ということになるだろうから。
 そして、言うまでもなく、このようなスポーツ観戦の極限にあるのが、プロレス観戦であろう。

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