HR/HMと私

第一部・腐れ縁編

 私はハード・ロックとヘヴィ・メタルを好んで聴く。そして、そのついでに、自分にとってHR/HMとはなにか、といったことを考えたりする。理屈をこねて添えることで趣味はもっと楽しくなる、というのが信条なので。

 1990年代に私はこの手の音楽を集中的に聴いていた。しかし、2001年の終わりにDeathのチャック・シュルディナーが亡くなって、そこで私にとってのHR/HMは一旦終わった。だんだんライヴから足が遠のき、CDも買わなくなった。ごく限られたアルバムだけを繰り返し聴くだけになった。自分にとってHR/HMはもう終わったのかなあ、と思った。

 しかし、2004年末、突然ダイムバッグ・ダレルが亡くなった。呆然とPanteraとDamegeplanを聴き返しつつ、やはりロックはいいなあ、としみじみ思いなおす。こんなかたちで戻ってきたくなかったのだが、ともあれ、私は戻ってきてしまったわけだ。

 HR/HMとひとくくりにしてもいいのだが、あえて言えば私の執着はメタルにある。

 私にとって、メタルは青少年の音楽ではない。社会やオトナにたいする不平不満をがなりたてるのは、パンクの連中にでも任せておけばよい。パンキッシュな抵抗の底には、一種の楽観がある。目の前の権力を倒せば何か良いことがある、と信じているから抵抗するのだ。

 しかし、メタルは違う。メタルとは、この現実にたいするペシミズムとニヒリズムから出発する音楽である。人生の不条理にたいする認識と、そこから生じる狂気と絶望と孤独、これらからメタルの音は生まれるのでなければならない。そこに救済の可能性はあってはならない。

 何を倒せばよいのか、何と戦えばよいのかもわからない。だからただ絶叫するしかない、そういった救われなさの感覚がメタルの叫びにはあってほしいのである。

 この根源的な悲嘆は、明るい未来を信じている連中にはわからない。自らの力を過信している若者にもわからない。現実にたいして根本的な不信感を共有するものだけが、これに呼応し、自らも絶叫するのだ。私はメタルのそういった「人生を根本的に投げた感じ」に惹かれるのである。

 70年代のロックや産業ロックも好きなのだが、それらのギターの啜り泣きや透明な美メロにも「人生そのものの不条理と狂気と絶望と孤独からの逃避」という要素を読み込んでしまっているようだ。どこかに諦念を感じさせてくれなければ、どんな美しいメロディも薄っぺらに聴こえて泣けはしない。ドラッグでゆんゆんのバカなロックも、狂気をつきつめたうえでの明朗さ、というようになっていないと、聴いても面白くない。

 すなわち、そういったおかしな精神状態にまで聴き手をもっていくような、楽曲の扇情力が勝負どころ、ということだ。芸術の文脈ならば下品、悪趣味と言われるであろうほどに、過剰に情念に訴えかけなければならない。そこがHR/HMの勝負する場所だ、と私は思う。

 まとめれば、それなりにいい大人がひきこもって不健康に聴くのが私にとってのHR/HMの醍醐味、ということになろうか。たとえば、ピロピロ速くてカッコよさげなだけの音は駄目。私にとってのメタル基準を満たしていないのである。いやまあもちろん例外はいろいろあるわけで、じゃあ明朗快活に野蛮なManowarはどうなんだ、お前好きじゃないのか、とか言われると困るのだが。

第二部・さらばメタルよ青春の日々よ編

 2010年5月にロニー・ジェイムズ・ディオが亡くなった。そこでついに自覚したよ。いつしか、私にとってのHR/HMは完全に終わっていたようだ。

 どういうことか。2010年の私は、ディオの死を諦念をもって静かに受け止められてしまったのである。2004年にダレルが死んだときは心がざわめいた。あの時点での私は、まだちょっとだけメタラーだったのだ。しかし、今は違う。私は「かつてのメタラー」にすぎない。ディオの死は、自分のなかでメタルが死んでいたことを確認させてくれるものでしかなかったのである。少々寂しいが、仕方のないことであるよな。

 やはり私のHR/HMは1990年代だな。70年代、80年代でお前のベスト盤を挙げてみろ、と言われても、世間一般で名盤とされているものしか思いつかない。世間の客観的評価と私自身の主観的愛着が大きく食い違うのは、90年代の作品群にかんしてだけだ。1990年ごろから10年くらいのあいだ、私はメタルを聴きまくり、たぶん一生分を聴いてしまったのだ。

 それにしても、なんで私のメタル魂は終わってしまったのかねえ。かつて私は、メタルには、現実にたいするペシミズムとニヒリズムを感じさせてくれるものがないといかんよ、と述べていた。もしこれが正しいとするならば、現在の老いた私は、音楽を必要とすることなしに、現実にたいするペシミズムとニヒリズムを十分に実感できるようになってしまったのかもしれない。だから、現在の私には、メタルが不要になってしまったのかもしれないなあ。

 これからなにを聴けばよいのだ。演歌か。演歌はまだ早い気がするが。

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