格闘技漫画としてのイダタツヒコ『美女で野獣』

 漫画にはウソとデタラメがつきものである。
 たんに現実を忠実に描写しているだけでは、面白くならない。漫画ならではのトンデモな表現、トンデモな理屈が炸裂してこそ、漫画の意味がある。例外がないわけではないが、まずはこう言ってよいだろう。
 格闘技漫画、武術漫画においても事情は同じである。とくに、実際の格闘技というものは、実はきわめて地味なものである。ウソ、デタラメが要求される度合いも大きいわけだ。
 こういうわけで、格闘技漫画の描写について現実との乖離を云々する作業には、原則的には魅力を感じない。

 しかし。
 ここに一つ注意しなければならない点がある。
 ウソでデタラメな描写をするのはよい。
 しかし、それがウソでデタラメである、との自覚を作者がもっていない場合は、やはり困る。無反省で妄想を垂れ流すのは、ただのイタい人である。それが創作であるためには、ウソをウソと自覚してついていなければなるまい。意図的な創作上のデタラメと、無知と勘違いの結果のデタラメは異なる。あたりまえの話である。
 ところが。
 困ったことに、格闘技漫画には、ダメなほうのタイプの妄想描写が意外に多い。劇中のデタラメを、作者本人が正しい戦闘理論だと信じこんでしまっているような作品が多々あるのだ。
 野球やサッカーなどのスポーツ漫画と異なり、やったことないのに描く人が多いからだろう。
 これが読者を、とりわけ、やったことのある読者を萎えさせる。格闘技や武術の領域には、そうでなくてもイタい妄想が溢れていて、心ある修行者はみな辟易としている。漫画だから、と寛容になれないのである。
 というわけで、私は格闘技漫画が苦手である。

 と、言いつつも。
 イダタツヒコの『美女で野獣』は、なかなかによい。
 描写はウソデタラメだらけである。
 しかし、「こういう描写をするのは、コレが本当だ、と信じているわけではなくて、コレが漫画的にいちばん魅力的な表現だからなんですよ、実際の格闘技や武術の精確な紹介なんかには興味ないですよ」という作者の態度が同時に読み取れるので、気にならない。気にならないうえに、まさに魅力的な表現として、楽しく読める。
 アイリーンの纏絲勁とかな。
 久方ぶりに、ひっかからずに読める格闘技漫画に出合えた。

 イダタツヒコはクールなのだ。
 自分の描いているものに完全に没入せずに、距離をとって、計算して描いている。ある意味、プロとして当たり前の態度である。しかし、先に述べたように、格闘技漫画の世界には、作者が自分の妄想に嵌まり込む、というイタい状況が頻発している。それゆえか、当たり前のはずのこのクールさが、やけに心地よく感じられる。
 ところで、イダタツヒコのクールさには、ホラー漫画を描いていた経歴と、B級アクション映画のバカなノリへの深い愛着が上手く作用している、と私は見ている。ホラーこそ、クールな計算がなければ描けないだろう。また、バカさをあえて楽しむ、という距離のとり方ができなければ、B級モノを愛好することもできないだろう。
 どちらもクールさを要求する。これが根にあるからこその、『美女で野獣』の切れ味、というわけだ。

 このクールさを皆さん見習って欲しい。妄想がコントロールされていないのに面白い作品なんて、『空手バカ一代』と絶好調時の板垣恵介作品くらいではないだろうか。ごく稀な事例である。

 ともあれ、『美女で野獣』、よい漫画である。
 イダタツヒコの評価がもう少し上がって、『ゴルディアス』の続き描いてくれれば、さらに嬉しいのだが。あれ好きだったんだよ。

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