杉村麦太『吸血聖女キリエ』を読む

はじめに

 杉村麦太『吸血聖女キリエ』全二巻。秋田書店から2002年に出ている。よい少年漫画である。この作品の魅力を少々語ってみたい。基本的に既読者向けであるが、ネタバレは極力控えた。未読の方にも目を通して頂いて、ちょっとでも興味をもっていただければ幸いである。
 劇中の文句を借りて、一応舞台設定だけ説明しておこう。時は1870年代、場所はアメリカ合衆国西部。世には「吸血病」なる奇病が蔓延していた。感染し発症すれば血を求め人間を襲う不治の病である。感染者は、防疫の名目で、犬のように殺される。ただでさえ無法の西部は、この病がために、さらなる血と暴力に染め上げられていた。
 その地獄と見まごう荒野を銃を引っ提げ行く少女ひとり。雪よりも白い肌、夜よりも黒い髪、そして血の赤よりも赫い瞳。
 彼女の名はキリエ。
 血まみれの聖女である。

少年漫画の文法

 『キリエ』をわざわざ取り上げて語るのは、少年漫画のポイントを変なところできちんと守っているなあ、と思わせるからである。まずは大きな論点を二つ挙げよう。ぱんつとヒロインいじめである。

ぱんつ

 最初に指摘しておくべき魅力は、ヒロインのキリエの白ぱんつである。
 単行本の表紙が二冊ともぱんちらというのを皮切りに、劇中でも見える見える。そして、特筆すべきは穢れなきその白さ。キリエがいくら撃たれて血を流していても、なぜかぱんつは白さを保つのだ。また、ここまでちらちらしていても、一向にエロくならないところ、ぱんつのデザインが、まさに初期BP(万乗パンツ)なところ、このあたりもよいものだ。少年漫画のぱんちらは過剰にエロスを感じさせてはならない。(そもそもこの人の絵柄はあまりエロくない。これは別名義のエロ漫画を読んでいてもそう思う。)
 で、面白いのはキリエ以外のぱんつがぜんぜん見えないところである。第十一話で登場のルーミーなんて見えてしかるべきなのに見えない。すなわち、ぱんつ見せるのはヒロインの特権なのである。インフレさせないあたり、なかなか心憎い。まあ、ルーミーの場合ぱんつはいてるのかもわからんが。
 少年漫画のぱんちら道がここにある。

ヒロインいじめ

 主人公をピンチに落として逆転させるのが少年漫画。当然ながら、ピンチが凄いほど、カタルシスも大きい。
 さて、ここで、ヒロインを吸血鬼に、そして女の子にしたわけだ。こうなったら、やることは決まっている。
 いじめていじめていじめまくるのだ。いじめてもなかなか死なないので、どこまでも鬼畜で外道な行為をヒロインにすることができる。キリエもまあ撃たれるは斬られるわ杭打たれるわ、酷いもんである。
 こういうところ、ヤバい性癖をもつお兄さんたちは大喜びで、そこから言及されることも多い『キリエ』であるが、私の読み方はちょっと異なる。
 『キリエ』の暴力には、実は性的な含意がない。少なくとも、劇中でキリエをいたぶっている連中に、そっち方面の意識はまったくないのである。あっけらかんと暴力だけが行使されている。トンボの羽むしるような、子供的な暴力なのだ。基本的にはエロスなきヒロインいじめなのである。
 これが面白い。『キリエ』のヒロインいじめシーンは、二種類の読み方を許すのだ。色々悪いコトを知っていて、ついついエロを読み込んでしまう大きなお兄さんたちにとっては甘露のハアハアシーン。しかし、描かれていることだけからすれば、ただ悪い奴が暴れているだけ。異なる二種の解釈が両立する。上手いもんである。
 これは少年漫画ならではの仕掛けであろう。青年漫画だと、女性への暴力シーンにはいやでも性的な含意が入ってしまう。それでは面白くない。一番ヤバいところでホモセクシュアルのオッサンを出すあたり、その辺わかって計算している、と私は読んだ。同じ秋田の『カオシックルーン』とよく並べられるが、とにかく思うがままにグロ道を邁進している感のある山本賢治とは、ちょっと異なる印象がある。

その他の論点

 語り残した小さな論点をいくつか。
 珍銃、バカ武器について。
 これは私見であるが、少年漫画にリアルな銃器はいらない。リアルな銃はリアルな世界でのみリアルである。少年漫画の世界にリアルな銃をもちこんでも、浮く。漫画ならではのアクションには、漫画的な珍銃バカ武器が相応しい。『キリエ』もきちんとこの路線を突き進んでいる。日傘ライフルは秀逸。
 女性中心主義について。
 とにかくオヤジは敵、女の子は味方。これを徹底している。女の友情一代記である。これを百合モノと読むのも不可能ではないが、それよりも、下手に男女の恋愛要素を入れてマカロニ流血アクション銃撃ヴァイオレンスを薄めていない、という方向から評価しておきたい。古いマカロニの思想は「男の戦いに女は不要」であった。『キリエ』の場合は、これが「女の戦いに男は不要」になっているわけだ。
 最後に、吸血鬼モノ、ということについて。
 別にどちらが優れているというわけではないが、吸血鬼モノを描く動機には二種類あるような気がする。一つは「目的としての吸血鬼」派で、僕が私が考える吸血鬼とは、コレだ、と出してくるものだ。もう一つは「手段としての吸血鬼」派で、手っ取り早く強いヒーローなり敵なりが欲しい、手っ取り早くエロいオネエチャンが描きたい、でも、設定をゼロからつくるのは難しい、ということで、吸血鬼をもちだすものだ。
 『キリエ』は、吸血鬼を徹底的に疫病の観点から解釈してみるなど、ちょっとひねった吸血鬼像を示してくれている。かなり野心的に「目的としての吸血鬼」を目指しているようだ。吸血鬼研究は膨大な蓄積があるので、門外漢はめったなことを言えないが、なかなか面白いのではないだろうか。

おわりに

 続きが読みたい。
 やはり二巻では消化不足。これから防疫修道会と、軍と、「黒衣の者」と、そしてキリエと、四つ巴の死闘が繰り広げられなばらないのだ。
 続きが読みたい。
 これまで強調してきたように、少年漫画として非常によい作品なのだ。にもかかわらず、変態グロ漫画として言及されるのしか見たことがない。言いたいことは判るが、評価のポイントとしては的外れだ。『キリエ』はみかけによらず王道である。
 聞くところによると、未だ初版が新刊で買えるとか。これが埋もれてしまうのは損失だ。
 王道少年漫画をこのまま朽ちさせてはならない。

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