キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』についての若干のコメント

はじめに

 まずは書誌情報を書いておこう。現在シリーズ三作の邦訳がある。

キム・ニューマン『ドラキュラ紀元』、梶元靖子訳、創元推理文庫、1995年。
キム・ニューマン『ドラキュラ戦記』、梶元靖子訳、創元推理文庫、1998年。
キム・ニューマン『ドラキュラ崩御』、梶元靖子訳、創元推理文庫、2002年。

 本稿はこのお馬鹿極まりない吸血鬼小説シリーズについてのちょっとしたメモである。
 どういう作品か。一応ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』の続編である。しかし、きちんとオリジナルの結末を受けての続編ではない。
 キム・ニューマンの世界では、我らがヴァン・ヘルシング教授は串刺し公に敗北している。あの戦いで、ドラキュラ伯爵が勝っちゃっているのだ。
 結果、大英帝国はヴラド・ツェペシュの支配下に置かれ、世はヴァンパイアに満ち満ちている。そのうえこの大英帝国には、ジャックと呼ばれる切り裂き魔がいて、超有名な諮問探偵の兄がいて、謎の中国人と例の教授がいて、ドクター・ジキルとドクター・モローが研究室の同僚で・・・と、ヴィクトリア朝のロンドンの有名人が実在虚構問わず総出演している。
 オタクの妄想全開の世界観で、端的にメチャクチャである。
 このロンドンで、心に深い傷をもつ腕利き諜報部員ボウルガード35歳と、450年以上生きていながら見かけは永遠の16歳、ドラキュラよりも古い吸血少女ジュヌヴィエーヴが大冒険。これが、第一作目、『ドラキュラ紀元』である。以下、続編が書かれ、現在シリーズ三冊邦訳があるが、やはり第一作目が別格に面白い。
 ただまあ、痛快娯楽小説なので、大上段から論じるのもアレだ。ということで、いくつかポイントを絞って感想を記しておく。

頑張れボウルガード

 こういう有名キャラを登場させまくる作品で難しいのは、オリジナルキャラの扱いである。有名人はキャラの立ちが半端でない。生半可なオリジナルキャラでは太刀打ちできなくなってしまうのだ。
 山田風太郎はよく古今東西剣豪大集合をやったが、同じ問題に直面している。敵に宮本武蔵や柳生但馬守をもってくれば、そりゃ豪華なラインナップさ。でも、豪華すぎてどうやって倒したらいいかわからなくなっちゃうのだ。どんなに想像力を振り絞っても、オリジナルキャラでは武蔵を斬れないのだ。格が違うから。というわけで、『魔界転生』では柳生十兵衛に登場してもらわねばならなかった。『忍法剣士伝』では主人公たちを傍観者にまわし、達人たちは相討ちでどんどん自滅しなければならなかった。山田風太郎ほどの想像力をもってしてもこうなのだ。実在虚構問わず、有名人の扱いは難しい。
 で、『ドラキュラ紀元』の主人公たるオリジナルキャラ、ボウルガードとジュヌヴィエーヴである。
 ジュヌヴィエーヴはいい。萌えキャラだから。
 問題はボウルガードだ。やっぱり周りに格で負けている。なんかこう、ギャルゲーの主人公っぽいのだ。モテモテ君だが個性薄い、というような。まあ、以上のような理由から、しょうがないことではあるのだが。ドラキュラと正面から対決しても格負けしないキャラを創造する、というのは至難の業だろうから。
 そう考えると、菊地秀行というのは凄い人である。どんなゲストが他から来ても、せつらやメフイストなどの自キャラを勝たせて納得させてしまう。なんとも剛毅だ。

日本刀信仰

 で、ボウルガードのキャラの薄さであるが、やはり彼は喧嘩が弱すぎる。
 『ドラキュラ紀元』では、彼は銀コーティングの対吸血鬼用仕込み杖をもっている。でも、古株の強力吸血鬼とは、やっぱり互角に戦えない。
 このへん、どうも喰い足りない。少なくとも私などがもつ刀の遣い手についての思い入れを裏切っている。
 仕込み杖もってるなら、居合だ。居合を極めたら吸血鬼だろうが人狼だろうが抜く手も見せずに両断する。こうでなくては。極限まで練り上げられた武術は魔術を凌駕する。これが東洋の基本的価値観である。こういうのは大英帝国の人にはわからないのだろうか。
 読んでいて、ボウルガード、サーベルが泣いているぞ、と、どうしても言いたくなってしまうのだ。

美少女は何歳か

 ヒロイン、ジュヌヴィエーヴである。
 齢は450以上。ドラキュラより古い血筋を誇る高貴な美少女。見かけは吸血鬼になった16歳のまま。
 秋葉原の中学生のオタクが考えた設定と言われても信じてしまうかもしれない。ベタベタだ。指摘するまでもないが、吸血殲鬼ヴェドゴニアのリアノーンやモーラとちょっと被ってる。このへんの萌えポイントは人類共通なのかもしれない。
 ただ、一つだけ指摘しておきたい。
 ジュヌヴィエーヴは高校生の外見。一方、モーラは小学生の外見。
 相手役の男の年齢との兼ね合いもあるが、まあ、この一点に関しては、やはり我々のほうが深く病んでいるということだろうか。勝った、といってもいいだろう。

眼鏡っ娘は世界の共通語

 第二作目の『ドラキュラ戦記』は、一作目よりちょっと落ちる。しかし、言及せざるをえない。ヒロインのケイト・リードが眼鏡っ娘なのだ。
 それも超ド近眼で、かつ、赤毛でそばかす。ディ・モールト素晴らしい。
 眼鏡っ娘は世界の共通語なのかもしれない。
 ただ、一つだけ間違いがある。エロシーンで眼鏡はずしちゃうのだ。画竜点睛を欠く、とはまさにこのことである。
 第三作目の『ドラキュラ崩御』は、まあ、いいや。二作目三作目については、設定が先走って話が転がりきってない気がする。続編は、舞台となる場所を変え、一作目に続く歴史を妄想していく方向で進む。私としては、ヴィクトリア朝の魔都ロンドンにこだわったほうが面白かったような気がするのだが。

おわりに

 というわけで、先行作品からのキャラを縦横無尽に引用しつつ、小ネタ薀蓄満載で展開される冒険活劇、というだけにとどまらず、細かいところにオタクを感じさせるところが興味深い作品である。
 ぜひ一読をお奨めする。
 最後にヴァンパイア物としての欠点をいくつか指摘しておこう。
 一点め。作中には人間もヴァンパイアもいろいろ登場するのだが、どうもそこに偏りがある。主要キャラに人間の女性が出てこないのだ。ヴァンパイアの生を描こうとすれば、人間の生との対比で描かねばなるまい。ところが、人間男性は出てきても、人間女性が出てこない。ヴァンパイアのヒロインたちが、わりとキャラ立ちしているので、一人よい人間女性がいたら話がもっと締まったと思うのだが。
 このへん、少しもったいない。極端な話をすれば、ボウルガードを女の子にして百合道を突っ走っていたら、『紀元』はともかく、『崩御』なんかはもっと面白くなったと思うのだが。
 二点め。とくに続編について。やっぱり吸血鬼が増えすぎてしまうと、インフレが起こってありがたみが薄れてしまう。日常生活に馴染んでしまった吸血鬼はもはや吸血鬼ではない。『戦記』や『崩御』の展開ではなく、魔都ロンドンにこだわるべきでなかったか、という私の意見は、ここにも根拠をもつ。霧のロンドンの路地裏の暗闇は、つねに日常を超えるなにかを暗示する。あの魔都ならば、増えた吸血鬼を非日常のままに受け入れることができたのに。第一次大戦の戦場も古都ローマもダメのダメダメ。やはりロンドンか…新宿でなければならない。
 魔界都市でなければならないのだ。

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