岡田あーみん試論

 天才、岡田あーみんが筆を折り、姿を消して久しい。信者であった私は、以降、折に触れ、あーみんがなぜ消えねばならなかったのか、と考えていた。あの才能が外的事情だけで断筆するとは思えない。なにか内的な理由があったのではないか。
 本稿は、その問いに答える一つの解釈を示そうと試みたものである。
 ただし、今のところアイディアだけの段階で、テキスト全般を読み込んでの精密な解釈にまでは至っていない。ご容赦願いたい。

 岡田あーみんを絶賛する声は今も絶えない。不世出の天才異能変態ギャグ漫画家。その魅力は、いくら形容詞を過剰に重ねても、言葉では伝えきれない。そのような声に、私も完全に賛同する。しかし、だ。その一方で、かすかな引っ掛かりを心に覚えるのだ。
 あーみんの天才性は、ほとんどの場合、その過激な変態的ギャグの冴えにおいて主張される。マバンヤさまー。一発一発のネタの狂気に近いほどの切れ味こそ、あーみんの本領、というわけだ。それはそうだ。そよ風さんがそっと背中を押したら僕は楽園の小鳥さ、チチ、チチ、とか描ける奴などあーみん様以外にはいない。
 しかし。それだけなのだろうか。
 変態的ギャグのあまりの天才ぶりに隠されてしまっているが、あーみんには別の契機があるのではないか。そして、あーみん本人にとっては、そちらのほうこそ、漫画を描く本質的動機になっていたのではないか。

 それは、物語作家あーみん、という契機である。
 岡田あーみんは、つねにストーリーのあるドラマを描こうとしていた。ここに注意しなければならない。
 試みに、あーみんの作品から、その変態的ギャグをすべて捨象してみよう。意外なことに、けっこうまともなドラマが姿を現す。実は、このドラマ性こそが、あーみんにとっての本質をなしていたのではないか。これが私の解釈である。

 『お父さんは心配症』。
 『お父さんは心配症』からギャグを抜く。すると、父と娘、それぞれの恋愛をつうじて二人の絆を描いていく、というドラマが現れる。まさに王道かつ直球の人情物語である。そして、私はこれこそがあーみんの描きたかったものなのではないか、と思うのだ。
 これはこじつけではない。他の作品を順に見ていこう。

 『こいつら100%伝説』。
 『こいつら100%伝説』は、基本的にはシチュエーションコメディである。いつもの登場人物がいつものノリで喜劇を繰り広げる。これは、私の解釈を否定する作品のように思える。
 しかし、最終回直前。あーみんは、突如としてターミィを主人公とした怒涛のメロドラマを繰り広げてしまう。これが、私には、物語を描くことを意図的に抑えられていた連載中の鬱憤を発散しているかのように見えてしまう。

 『ルナティック雑技団』。
 この最後の作品において、あーみんの物語志向が噴出する。コテコテの変態ギャグを混ぜつつも、恋愛ドラマは確実に段階を踏んで展開する。あーみんは本気で怒涛の恋愛と成長の物語を描こうとしていたわけだ。この物語重視傾向は、外伝に至って、より明白になる。起承転結のついた一本の物語を描ききること。これがあーみんの主題であることは、もはや疑いようがない。

 ここで私の結論を提示しよう。これを支持する確定的な証拠は、ない。あくまで残された漫画から読みとった印象による解釈である。

 岡田あーみんは物語作家に、ストーリーテラーになりたかったのではないか。

 しかし、何たる運命の皮肉、神はあーみんに不世出の変態的ギャグの才能を与えてしまったのだ。
 一方、あーみんは物語を描くことができる。しかし、天才的に上手いわけではなかった。
 そう、岡田あーみんにおいて、その才能と志向は徹底的に乖離していたのである。そして、あーみんは、この乖離に決着をつけることができなかったのではないか。それが不可能なほど、あーみんはギャグの天才だったし、また、物語を紡ぐことを愛していたのではないか。
 それゆえ、天才は挫折し、漫画家岡田あーみんは姿を消した。これが私の解釈である。
 証拠は一つもない。というよりも、ただの想像でしかない。
 しかし、私にはそう思えてならないのだ。

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