『勇者王ガオガイガー』によるロボットプロレスの克服

 ロボットものを批判する決まり文句の一つが、ロボットプロレス、というものである。主役ロボと敵役ロボとが勝敗見え見えのお約束的殴り合いをする子供騙し、というわけだ。いかにもつまらなそうである。

 しかし、ガチでなくともプロレスだって面白いものは面白いはずだ。というより、ガチではないからこその面白さについての蓄積がプロレスという文化を形作っているのである。これと同様に、ロボットものというジャンルも、ロボットプロレスという枠のなかで色々と様式や方法論を追求してきたのである。ロボットプロレス、すなわち、お約束で駄目、というのは短慮に過ぎるだろう。それどころか、逆に考えれば、ケレン味のないガチの戦闘などは、実は観ても退屈なだけのはずだ。プロレスということが、楽しい出鱈目を意味するのであれば、これはもちろん大歓迎なのである。

 では、ロボットものの採用してきた面白さ追求の様式には、どのようなものがあるのだろうか。本稿のねらいは、その一つを名作『勇者王ガオガイガー』にそくして提示してみよう、というものである。

 では、なぜガオガイガーなのか。

 ガオガイガーの戦闘シーン、とくに前半のものを想起されたい。実は、プロテクトシェードからブロウクンマグナム、そしてヘル&ヘヴンでのワンパターンで瞬殺の繰り返しである。予想された技が予想された順番で繰り出され予想された効果を挙げ、予想された方、すなわちガオガイガーが勝つわけだ。苦戦するそぶりすら、ほとんどない。まさにしょっぱいロボットプロレス。であれば、つまらないはずだ。ところが、ガオガイガーは面白いのである。これは奇妙なことである。

 この疑問に答えることで、我々の問題に一定の見通しがつくことが予想される。というわけで、以下、ロボットものとしてのガオガイガーの基本構成を考察していくことにしよう。

 結論から述べよう。ガオガイガーとは、必殺技なのである。

 普通のロボットプロレスは、主役ロボと敵が対峙し、ポカポカ殴りあう。そして、最後に主役ロボが必殺技を出し、勝つわけだ。必殺技がワンパターンになるのは仕方がない。というより、必殺技が必殺技であるかぎり、当然のことである。そうなると、このとき、ロボットプロレスの面白さは、必殺技が出るまでの「ポカポカ殴りあう過程」をどうするか、にかかっていることになる。ここがワンパターンだと、すべてがワンパターンになってしまうことになり、必然的につまらなくなる、というわけだ。

 さて、ガオガイガーの戦闘は、既述のように、ワンパターンそのもののように見える。しかし、これを、「ポカポカ殴りあう過程」がワンパターンなのだ、と解釈してはならない。そうではない。ガオガイガーには、「ポカポカ殴りあう過程」がそもそも存在しない、と解すべきなのだ。ガオガイガーは登場した瞬間から必殺技を発動させている、というか、存在そのものが必殺技なのだ。だから、敵を瞬殺してしまうのだ。卯都木命が右手を振り下ろし、ファイナルフュージョン作動ボタンのセキュリティカヴァーを叩き割った瞬間に、もう勝負はついているのである。

 では、「ポカポカ殴りあう過程」はどこへ行ってしまったのか。もうおわかりであろう。ここを担っているのは、ガオガイガーではなく、GGGという組織全体なのである。異常な事件を解析し、背後に潜むゾンダーを追い詰めるのは、ガオガイガーではなくGGGである。GGGの対ゾンダー活動の過程こそが、普通のロボットプロレスにおける「ポカポカ殴りあう過程」なのである。

 ここに、『ガオガイガー』という作品の構成上の工夫がある。

 通常は主役ロボが担う、敵とポカポカ殴りあう、という過程を、完全に主役ロボの属する組織に委ねてしまったのだ。GGGがゾンダーを追い詰める過程は、そのゾンダーの個性に応じて毎回異なっている。それゆえ、たとえガオガイガーの戦闘部分はワンパターンでも、全体としてのGGGの戦闘はワンパターンになっていないわけだ。

 GGGが戦闘の主体でガオガイガーはGGGの必殺技、という構成が、ガオガイガーの戦闘がワンパターンであるにもかかわらず全体としてはそれが問題にならないことを説明するのである。

 しかし、ここで新たな問題が浮上する。これまでの説明からすれば、主役ロボが敵とポカポカ殴りあう過程にバリエーションをつけていけば、『ガオガイガー』と同じ効果が得られることになる。ワンパターンは回避されるわけだ。つまり、なぜ『ガオガイガー』は、わざわざその過程をGGGに全面委託したのか、ということは、未だ説明されていないのである。

 一つの解釈は、ロボ主体よりも組織主体のほうがワンパターンを回避しやすいから、というものだ。このような構成を採ることで、殴り合いという狭義の戦闘から、敵の起こす不思議な事件の謎解き、というより広い文脈にお話の軸を移すことができる。ドラマの幅が広がるわけだ。また、このとき、主人公以外の組織メンバーのキャラを立てやすい、という利点もあるだろう。ヒーローの後ろでただ右往左往しているだけの有象無象ではなく、共に戦うかけがえのない仲間、という描き方がしやすいのである。脇キャラの立ちは、作品に奥行きを与えるだろう。しかし、これだけではない。

 私が注目したいのは、「ポカポカ殴りあう過程」を主役ロボから外すことにより、「ロボのスーパーさ」、ひいては「敵の強大さ」より強調することができるという点である。

 「ポカポカ殴りあう過程」にバリエーションをつけることは、結果、主役ロボが毎回違ったかたちで苦戦する姿を描く、ということにならざるをえない。これは困ったことである。敵味方の強さ弱さ関係を物語の展開でコントロールしづらくなってしまうのだ。

 たとえばこうだ。苦戦させれば主役ロボは弱くなる。それでも勝ったということは作中で強くなったということだ。でも次回の敵にはまた苦戦した。敵がもっと強くなったのか。ではこちらももっと強くならねば。ジャンプ漫画にありがちのインフレのできあがりである。バトルものは、このような感じで、回を重ねていくと、誰が誰よりどのくらい強いのか、という関係がグチャグチャになってしまいがちだ。これは、戦闘を面白く描かねば、という縛りが、物語の展開にまで縛りを与えてしまうからである。よほど上手に苦戦と逆転の論理を組み立てないと、すぐに世界観が破綻してしまうのである。

 ところが、『ガオガイガー』にはこの心配はない。

 前半のガオガイガーは出てくる敵をすべて瞬殺する。ガオガイガーは苦戦しない。苦戦しているようにみえるシーンがあっても、それはガオガイガーの運用にGGGが苦戦しているだけであり、ガオガイガーの無敵さは毫も揺らいでいない。とにかくスーパー。無敵にスーパー。回を重ねても、これが揺らぐことはない。そして、そうであっても面白いお話を提供できている、ということは、すでに指摘したとおりである。

 そして、このような安定した強さの描写は、後半になって、本当にガオガイガーが苦戦するさいのインパクトをさらに大きくする。インフレ、デフレ等の強さ値の上下動がないので、本当に強い敵が出てきた、ということがはっきりと認知される仕組みになっているわけだ。付け加えるならば、このような強敵の強さの説得力は、その敵に打ち勝つガオガイガーのスーパーさをさらに際立たせることになるだろう。

 『勇者王ガオガイガー』が二十世紀最後にして最高のロボットアニメとして君臨しえたのは、このようなよくできた構成のゆえである、と私は考える。『ガオガイガー』前半部のワンパターンなロボットプロレスは、ワンパターンであるがゆえに、全体の物語をつうじて、GGGの活躍っぷりと、ガオガイガーの強さと、敵の強大さとを際立たせる機能を果たしえているのである。

 『ガオガイガー』以降、二十一世紀に入り、スーパーロボット的方向を追求する作品が散見されるようになった。しかし、それらの多くが正直今ひとつである。その理由はいろいろ考えられようが、その一つは、ロボットプロレスの克服という課題に適切に応答できていないからであろう。電童しかり、Gダンガイオーしかり、グラヴィオンしかり、ゴーダンナーしかり。玩具を売ったり乳を揺らしたりするためのアリバイづくりのためにロボットを出しているのではないとするならば、もう少し踏ん張ってほしいものである。

 過去のお約束に単純に回帰するのでもなく、さりとて、安易に新規さを求めて王道を忘れるのでもない、そのようなロボットアニメを私は観たい。

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