2013年のヌルオタ論

ここ十年でヌルオタ論の問題状況は決定的に変化した

 いわゆるオタク論では、いわゆる「ヌルオタ」あるいは「ライトなオタク」のふるまいがずっと問題になってきた。知識もないのに脊髄反射で語るだとか、流行に流されるだけで売り上げしか評価軸をもたないとか、仲間うちでおしゃべりすることが好きなだけで作品に誠実に向き合っていないとかいった批判を思い浮かべていただければいいだろう。こういった話は、少なくとも私が母屋のサイトを立ち上げた十年前より以前からなされていた。そして、今なおそこここで述べられている。

 その意味では、この手の話は、最近の若い者は駄目だ、という話が紀元前から繰り返されてきたのと似ている。批判として実体があるのかないのかも怪しい。ただし、ここではそこには立ち入らない。検討したいのは、このような批判の言説そのものの位置づけである。

 今、最近の若い者は云々、という話を引き合いに出した。しかし、同じ構造が反復されているだけのそれとは異なり、オタク論におけるライトオタク批判においては、十年前と現在とで決定的な差異がある。

 いまいち実情に合っていないが、話の都合上、ライトオタクを批判する連中を便宜上「濃いオタク」と呼んでおこう。十年前のライトオタク批判は、濃いオタクが「ライトオタクが我々のコミュニティを荒らしている」というかたちで問題提起されることが多かった。あくまでコミュニティの主導権は濃いオタクにあって、そこに新規参入してきた連中がてんでなっていない、というのが基本の展開だったのである。

 しかし、今や状況は変わった。オタクコミュニティの主導者は完全にライトオタクへと移行した。商業的にもネットの言説においても社会的集団として扱われるさいにおいても、中心になるのはライトオタクとなった。このことによってオタクの概念的な定義が揺らいだとは私は考えない。しかし、ライトオタク批判をめぐる状況にかんしては事情が異なる。政治的な布置の変化により、問題そのものが変質したのである。

本当に問題を抱えているのはライトオタクではなく濃いオタクである

 先に述べたような状況の変化があったとしよう。そうだとすると、濃いオタクによるライトオタク批判は、かつてとはまったく違う意味あいをもってくる。ライトな連中のやっていることがよしんば質の低いものだったとしても、別にそこに参加すべし、という義務があるわけでもなし、黙って好きなようにさせておけばいいはずだ。自分は自分、他人は他人である。そうであるにもかかわらず、濃いオタクたちがライトな連中を攻撃してしまうのはなぜか。

 結局のところ、濃いオタクは、自分からライトオタクの側に近づいていっているのである。自分からわざわざライトオタクに近づいていったくせに、そのふるまいに不愉快になって、揚句、説教したくなってしまっているのだ。

 つまり、現在のライトオタク問題の本当の根っコは、ライトオタクのライトさにあるのではなく、一部の濃いオタクの孤独にあるのだ。ライトオタクの占領下でも、ひとり作品を楽しむことはできる。話が通じる同志も何人かはいるだろう。しかし、やはりそれでは寂しい。自分の好きな作品をみんながどう思っているのか知りたいし、それについて多人数で気楽に語りあいたいのだ。そして、濃いオタクは山を下りたり洞窟から這い出したり海から上がったりして、ライトオタクの賑やかなコミュニティに近づいていく。そして、そこでしばしそれなりに楽しむのであるが、いつしかノリについていけなくなり、傷つき、恨みを抱き、ライトオタク批判をしたくなってしまうのである。

 そうであるならば、ライトオタク問題の解決は、ライトオタクをライトでなくすることではなく、濃いオタクたちに適切なコミュニティを当てがってやることによってこそ、なされるということになろう。それが可能であるかどうかはわからないが。

ヌルオタ論の真の問題は知的リソースの無駄遣いにある

 別の角度から問題を論じてみよう。私は現状、ヌルオタ論にかかわることで、濃いオタクのもつ知的なリソースが無駄遣いされているのではないか、と感じている。

 たしかに、たとえば現在放映中のアニメについてライトなオタクたちが囀る言説のうちには、箸にも棒にもかからないような酷いものが少なくない。そもそもこの子たちはこれまでまともに物語を読んだことがあるのか、我が国の国語教育はどうなっているのだ、というようなコメントがネット上などには溢れている。このようなライトオタクの言説が駄目なものであることはたしかである。しかし、ここには少なくとも無駄はない。ライトオタクはそのようなことしか言えないので、そのようなことを言ってしまうだけなのである。

 ところが、ライトオタクを批判する濃いオタクの言説については、事情は異なる。そのような言説は、よく考えれば、哀しいほどに無駄なものである。

 第一に、もしも可能であれば、このようなライトオタクたちを教育することは、濃いオタクにとってもライトオタク本人にとっても意味のあることであろう。しかし、そのようなことは実質不可能である。濃いオタクの説教は、実際には無益である。

 第二に、ライトオタクの駄目さは個性のあるものではない。類似のパターンの駄目な議論がそこここで繰り返されているだけである。つまり、ある濃いオタクがしたいと思ったような説教は、ほぼ確実に、誰か別の濃いオタクがすでにどこかでやった説教の繰り返しにしかならない。別に、いまさらもう一度あなたがやる必要はないものなのである。これまた、不毛である。

 さらに、第三に、濃いオタクは、他の濃いオタクと語りあうことによって、作品なりなんなりについて、なにか生産的な解釈を生みだすことができるかもしれない。ライトオタク批判に向かう、ということは、もっと生産的な成果を生んだはずの知的なリソースを、無益であり、かつ、すでにどこかに存在したような説教を再生産することに費やしてしまうということなのである。これは、勿体ない、の一語に尽きる事態であろう。

 こういうわけで、説教することが大好きであるとか、後進の教導に強い情熱を抱いているとかいった事情があるのでなければ、自分のことを濃いオタクだと思う人は、ついやりたくなるライトオタク批判をぐっと堪えて別のことをしたほうがいいのではないか。これが、過去の自分にたいする反省を踏まえた、現在の私の考えである。

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