思考停止アニメを思考する

 ここしばらくで私がもっとも知的好奇心をそそられた作品が『GJ部』である。この作品はいわゆる思考停止アニメなのであるが、このジャンルについては、そもそもの論じかたをよくわかっていない人をたまに見かける。そこで、いくつか要点を確認しておきたい。

 思考停止アニメとは、それを楽しむために作品の設定あるいは展開の細部や整合性について思考を停止しなければならないようなタイプのアニメを指す。つまり、この語はジャンルを表現しているのであり、価値判断を含んでいない。「思考停止アニメ」を罵倒語として使用するのは言葉の誤用である。

 思考停止アニメは、それを楽しむために能力や努力を必要としないわけではない。日本語の「なにも考えないで楽しめる」という表現と、オタクにおける専門用語の「思考停止」を混同してはならない。

 普通の人間は、アニメを見るとなにかを考えてしまうものである。とくに、作品中の一般常識、倫理観、社会制度などが現実の実生活と異なっている場合には、どうしてもそこに思考が行ってしまうであろう。しかし、歴史ものやSFとは異なり、思考停止アニメはそのような差異にポイントを置くものではない。実生活とは異なる設定は、過激なヴァイオレンスや能天気なエロスなどを屈託なく描くための舞台装置でしかない。そこでは視聴者は思考停止すべきなのである。ただし、もちろん、ずっと思考停止しっぱなしでも困る。燃えやら萌えやらの細部を把握しそこねてしまっては、なんのためにアニメを見ているのだかわからないだろう。つまり、ある作品の適切な箇所で適切なかたちで思考を停止する、というオタク的スキルを習得してはじめて、人は思考停止アニメを楽しむことができることになる。

 付け加えれば、私は、子どもや愚か者は本来の意味で思考停止アニメを楽しむことはできない、と考えている。そもそも現実の一般常識、倫理観、社会制度をよく理解していない場合には、あえて思考停止する、という過程がなくなってしまう。それでは思考停止アニメの醍醐味は失われてしまうであろう。あとから振り返って、ここまで酷いご都合主義的な展開、ここまでいい加減な設定を、よく思考停止して受け入れることができたなあ、と、視聴者が自分自身に呆れかえるところまで含めての思考停止アニメなのである。

 たまに、思考停止アニメを、思考停止してつくれるアニメだと思っている人がいる。とんでもない。いくら視聴者が思考停止を試みても、作品そのものに違和感を抱かせる点が多ければ、思考停止は成功しない。多種多様な嗜好や来歴をもつオタクたちを抵抗なく思考停止に導いて、引っかかりなく楽しませることができる作品をつくるということは、きわめて難しいことである。思考停止アニメは多大な努力と高度な技術をもってはじめて成立する技巧の産物である。

 というわけで、思考停止アニメのなかにも優れたものと劣ったものがある。さて、ここで注意すべきは、優れた思考停止アニメである、という表現には、二つの異なった意味がある、ということである。

 一つめの意味は、思考停止のしやすさにかかわる意味である。思考停止が成功するかどうかは、オタクの能力だけではなく、作品そのもののありようにも依存する。出来の悪い思考停止アニメは、思考停止するための過大な労力を視聴者に要求する。設定が不自然だったりキャラの言動が不快だったり展開が強引だったりすると、そのような欠点が意識にのぼりそうになったそのつどに、働きそうになる思考を押さえて、文句や疑問を棚上げしなければならない。他方、出来の良い思考停止アニメは、そのようなひっかかりがなく、あまり苦労せずに思考を停止して視聴しつづけることができる。昨今思考停止アニメが増えた、とよく言われるが、このような意味での出来の良い思考停止アニメはそれほど多くはない。

 二つめの意味は、いったん思考停止したあとで与えられる萌えの快楽の強さにかかわる意味である。『けいおん!』も『ストライクウィッチーズ』も『ガールズ&パンツァー』も、つっこみどころが山のようにある。あまり思考停止しやすくはないのである。ただし、これらの作品は、ひとたび思考停止に成功すれば、大きな萌えの快楽を視聴者に与えてくれる。この意味での出来の良さは、先ほどの意味とは異なるものであり、混同してはならない。つまり、たとえ二つめの意味で出来が良いからといって、一つめの意味での出来の悪さが相殺されてなかったことになるわけではないのである。

 このあたりの区別をしそこねると、おかしなことになる。最近の作品では、先にも挙げた『ガールズ&パンツァー』の評価をめぐる言説などがわかりやすいだろうか。この作品、少なからぬ視聴者を不快にさせるような出来の悪い部分を多く含んでいる。そして、そこに引っかかって脱落した人は、「この作品は思考停止アニメとして出来が悪い」と評することになる。他方、思考停止能力が高かったり、そもそも問題の欠点にたいして鈍感だったりして、それらの出来の悪い部分をスルーできた人は、「この作品は思考停止アニメとして出来が良い」と評することになる。一見したところでは、評価が真っ二つに分かれることになるわけだ。しかし、この評価における亀裂は見かけのものにすぎない。前者は先に挙げた一つめの意味で「出来が悪い」と主張しているのであり、後者は二つめの意味で「出来が良い」と主張しているのであるから、二つの評価は十分に両立可能なのである。

 さて、『GJ部』であるが、この作品は一つめの意味でとても優れた思考停止アニメであると評価しうる。とにかくひっかかりがない。大河の河口付近の石ころのように、あらゆる角がとれて滑らかになっている。そのため、振り返ってみれば明らかにつっこめたはずの箇所を、思考停止モードで見ているさいには自然にスルーしてしまう。この絶妙なつくりは驚嘆に値するものである。私はずっと、どうしてこんなことができるのか、そのツボはどこにあるのか、と考えているのであるが、いまいち結論を出せないでいる。物語が面白いタイプの作品などは、ポイントを大枠で押さえることがしやすいのであるが、『GJ部』を評価しようとする場合には、ところどころでやっている角をなくす技巧をそのつど押さえて解析しなければならない。これが難しいのである。ここには、出来の良い思考停止アニメほど、いったん批評の対象となったときには逆に多大な思考を要求する、という奇妙な事態が成立していると言えるであろう。

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