『ラブライブ!』のちょっとした感想

はじめに

 『ラブライブ!』は面白い。よくできている。こういう作品をつくるのであれば、ここに工夫が必要だよね、というところに的確に技を効かせている。私が注目したところをいくつか指摘しておきたい。

キモいファンの消去

 この作品は、一般的な疑似部活動モノかつ廃校モノをやっているように見えるが、そうではない。女子高校の廃校を回避するために部活動としてアイドル活動をする、という設定は、一見すると、職業であるアイドルをたんに部活動に落としただけのように思われる。しかし、この設定は、もっと作品の根幹にかかわる役割を果たしている。この設定があるがゆえに、この作品中のアイドルは、基本的には、後輩になるであろう少女たちに向けて歌い、踊り、微笑んでいればいいことになる。つまり、この作品世界には、我々が思い浮かべるようなアレでナニな感じのアイドルファンは存在しなくてよくなっているのである。テーマに原理的につきまとうが、どのように描いてもいまひとつプラスにならない要素を、最近ありがちな設定をちょっと組み合わせて世界観のレベルであとかたもなく消し去るその技に、私は唸った。キモいファンは、『ラブライブ!』世界の外側、つまりはこの現実世界に我々が存在していればそれでいいのである。

主人公の挫折の処理

 物語を盛り上げるためには、主人公は一度挫折してから復活しなければならない。このあたりについての『ラブライブ!』第11話の処理は興味深いものであった。主人公が先走って無理をしたことがフラグになって、肝心なところで失敗する、という流れは、スポーツものでは描きやすいものである。試合中に失敗があっても、最終的に勝てばいいからである。ところが、本作におけるライブのステージは、物語が動くほどの失敗をしたその時点で台無しになってしまう。そして、この作品は、そもそもの企画からして、失敗したライブを物語内に組み込む余地がないものになっている。なにしろ、劇中のライブの楽曲を、それがまさにこれですよ、という体裁でもって画面の前の我々に売りつけなければならないのであるから。そういうわけで、高坂穂乃果はなんの問題もなく完璧に一曲を歌いきった直後にブッ倒れることになったのである。タイミングは、ここしかなかった。

他アイドルとの競争の排除

 ラブライブという競争イベントを目指す、というかたちで物語の導入をつくっておきながら、他のアイドルグループをほとんど画面に登場させないで話を進め、締めににまでもっていったつくりも、なかなかの工夫であった。競合する他のアイドルを出してしまえば、必ず視聴者の一部がそちらのファンに流れる。そのうえで競わせて勝敗をつけたりすれば、無用な混乱が生じてしまったであろう。スポーツものと異なり勝敗をはっきり描けるわけではないので、どちらのライブパフォーマンスが優れているかについて、劇中での判定と視聴者の判定がずれてしまう可能性は高かったからである。これを明確な方針をもって回避したのは、よい戦略的判断であったのではないか。

青春ものにおける大人の役割

 本作は、基本的にはご都合主義展開であったのであるが、そこここの要点での大人の登場のさせかたが上手かった。この手の疑似部活動モノは、しばしば、子どもが権限も能力もないはずなのに自分たちだけで話を進めてしまうような展開になりがちなのであるが、肝心なところでちょこちょこと大人を登場させることによって、子どもたちがなにかに挑戦することも、そこで成功したり失敗したりすることも、全部大人たちが見守っているうえでのことである、との雰囲気がそれなりに出ていた。また、高坂穂乃果、絢瀬絵里、南ことりあたりはけっこうやらかしてしまっているわけだが、そのような失敗を大人が責めるシーンを描かなかったところも評価している。実際は尺もないのでそのあたりの描写をばっさり切っているだけなのだが、それが、子どもはいろいろ失敗して大人に迷惑をかけて成長するのであり、それでいいのだ、という好感をもてる思想があるかのような雰囲気を出す効果を生んでいたのである。

μ’sにとってのアイドル活動とはなにか

 もちろん、欠点もある。というより、雑なところも多かった。ただし、論じて面白い欠点ということになると、そもそも劇中のμ’sのアイドル活動がいかなる価値をもつものなのかを描き損ねてしまった、というところであろうか。本作の物語の基本的な展開は、導入で「手段としてのアイドル活動」という構図を強く出しておいて、そこに一回挫折を噛ませたうえで、「アイドル活動そのものが目的になる」という価値観の転倒をもってカタルシスをつくる、というものである。しかし、最終的に本作は、いかなる意味でアイドル活動がそのものとして追求すべき価値をもつ目的たりうるのか、ということを十分に描き切ることができなかった。そのため、たとえば南ことりの選択がいまひとつ視聴者にとってしっくりくるものにならなかったのである。では、どうしてそうなってしまったのか。私は、この失敗は『ラブライブ!』の企画そのものに由来するものである、と考える。そもそも、μ’sはアニメのなかに存在するスクールアイドルであると同時に、リアルで我々にCDやらなにやらを大量に売りさばいているガチでプロフェッショナルな商業アイドルでもある。これは『ラブライブ!』という企画の肝である。しかし、この二重性が、最後の最後でアイドル活動そのものの価値を問いなおしたときに、劇中におけるμ’sの公共的あるいは社会的な価値がどれくらいのものか、ということについて、つまりは、この世界での人気スクールアイドルというものがいったいどれほどのものなのか、ということについて、視聴者のイメージがいまひとつぼやけてしまう結果を生んでしまったのである。

おわりに

 このあたりの話を酒飲んで後輩にしたら、「遠回しにアイマスをディスるのやめてください」と言われた。なるほど、私が「『ラブライブ!』はやるべきではないこのことをやっていないのが上手い」と言っていたことのいくつかを、まさに『アイドルマスター』はいろいろなかたちでやっていたようだ。それでもあそこまでプロジェクトとして成功して大金を動かしているのだから、凄いものである。

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