愛と赦しと救いの論理

 物語を進める論理として、正義と愛はすいぶんと異なる。そのあたりを簡単に整理しておきたい。ちなみに、ここでの愛は、おっさん用語で言うところのラブラブチュッチュの愛ではなく、他者の罪を赦す愛を指している。

 まずは正義の論理から確認しておこう。

 正義の論理の基本は、交換にある。悪いことをした者にはそれ相応の罰が与えられる、というのが正義の物語の基本形である。このとき、悪事と罰は等価交換されるのである。正義のヒーローは、この等価交換が不均衡になってしまったときに颯爽と現れて、この状態を均衡へと回復してくれる存在なのである。

 このような正義の論理は、社会性あるいは公共性を重視するものである。正義の裁きはみんなが納得できる理由にもとづいてなされねばならない。見込みで悪人っぽい奴をブッ殺していては、正義の味方にはならない。こいつこそが悪人である、ということが誰にも共有可能なかたちで明らかになってはじめて、正義の味方の出番がやってくる、というわけだ。

 また、ここには、キャラクターの本質が同一性を保つ、という前提がある。悪いことをした者はその後もずっと悪者でなければならない。そうでなければ、後にその者を罰する、ということの意味が揺らいでしまうからである。

 他方、愛の論理はこれとはまったく異なるものである。

 愛の論理の論理の基本は、贈与にある。相手がなにかしてくれたから愛する、相手がなにかを返してくれるのを期待して愛する、というのは、真実の愛とは言えない。愛は無償で与えるものである。すなわち、悪事をなした者は、ただたんにそのまま赦されるのである。

 そのさいに重要なのは、なぜこの悪人を赦すのか、ということに合理的な理由があってはならない、ということである。ただたんに、「この人は本当は悪い人ではない、とにかく私はわかっている」という、愛をもって赦す側の端的な信念にもとづいて愛は発動する。つまり、愛の論理はあくまで個人的あるいは私的なものに留まる。それどころか、社会的公共的には愚行のように見えさえしなければならない。なんでこんな悪人を信じるのだ、あれだけ酷いことをされたではないか、まったく理屈に合わない、というように。

 そして、その時点では不合理に思われた愛の赦しの正しさは、結果からはじめて明らかになることになる。結果とはすなわち、悪人の改心と救済である。「この人は本当は悪い人ではない、とにかく私はわかっている」という愛による赦しが、悪事をなした者の心根を本当に変えてしまい、その者の魂を救ってしまうのである。では、なぜ改心は起きるのか。ここにも合理的な説明は不要である。愛とは奇跡を起こし罪深きものを救うものなのであり、それ以上を語るのは野暮というものだ。このように、愛の論理は、キャラクターの本質の変化を物語の肝に据えることになる。

 このように、正義の論理と愛の論理は先鋭な対照を示す。さて、エンタメ作品の場合、これら二つの論理はバランスよくブレンドされて提供されることになる。正義の論理一辺倒では官僚的で息が詰まるし、愛の論理一辺倒では宗教じみてついていきにくいからである。しかし、つくり手がこの対照を上手にまとめることができなかったり、受け手がこれらの論理の違いをよく理解していなかったりすると、混乱が生じることになるだろう。たとえば、罪を十分に償っていないのに赦されるのはおかしい、といったような奇妙な感想が出てしまうのである。

 少し説明しておこう。罪を償ったら赦してやる、という発想は、実は微妙に理屈に合わない。そもそも正義が問題になっていて、そこで罪を償ったのであれば、そこでさらに赦すの赦さないのという話が出る余地はないはずだ。ちゃんと罪は清算されているのだから。そもそも愛が問題になっているのであれば、そこになにか交換条件がつくことがおかしい。愛は端的な贈与なのだから。このように、罪を償ったら赦してやる、という発想は、正義の論理と愛の論理とを混線させてしまったときに生じるものなのである。

 さて、そうはいっても既述のとおり、二つの論理を絡めていかないとエンタメ作品の味は単調になってしまう。つまり、二つの論理の方向性のズレを上手に調整し、混線しないように一つの物語へとまとめていくことが、エンタメ作品が成功するための一つの鍵なのである。

 もう一つ、二つの論理を絡めるさいの注意点を指摘しておこう。正義の論理と愛の論理は理屈からすればそれぞれ独立のものである。そこに優劣はないはずだ。しかし、物語のお約束からすると、基本的に正義は愛に負ける。赦されて救われた悪人にたいしてさらに償いを求めても、もはや正義の裁きのカタルシスは失われているからである。エンタメ作品においては、愛の論理はしばしば正義の論理の腰骨を砕いてしまうのである。このあたりも気をつけなければならないところであろう。

 ところで、私の好みの中心は正義のヒーローにあって、愛の話は守備範囲からちょっと外れている。しかし、昨今、リアルの領域で、正義の論理の濫用がどうにも気になるようになった。ちょっとした失敗から犯罪行為まで、他人の罪を見つけては、「償え」「裁け」「相応の罰を与えよ」の品のない大合唱。大衆などというものは昔からこうだった、といわれればそうなのかもしれないが、それにしても目に余る。これ以上、正義の裁きが安全地帯から他人を攻撃するための道具になりさがらないためにも、愛の論理の勘所を強調しておくべきなのではないか、と思った次第である。

 最後に具体的な作品を挙げておく。正義の論理と愛の論理の違いを見てとりやすい作品としては、やはりプリキュアシリーズ、とくに映画版に目を向けたい。映画版は尺が短いので、話の軸をどちらの論理に置いているのかがはっきりとわかるのである。直近の『NS2』などは、愛と赦しと救いで行くぞ、という方針が明確である。この路線でいちばん成功したのはハートキャッチの『花の都』であろうか。それにたいして、初代の映画は二本とも普通に悪を正義の一撃でブッとばしていたような気がする。フレプリくらいから、つまり、鷲尾天が関わらなくなった作品から、とくに映画版では愛の論理を推すようになっていったというわけだ。

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