作品評価の三様式

はじめに

 ネットやらなにやらには作品について評価を下す言説が溢れている。そこで、ちょっと立ち止まって、そもそも作品を評価するということがなにか、ということを整理しておきたい。

 話を始めるまえに、一つ注意をしておこう。ここで私は、作品の評価を明示的に表明する場合を考えている。ある作品の円盤を多量に買いこんでいる人は、その態度でもって、作品を肯定的に評価していることを暗示している、と言えるのかもしれないが、そのような場合は考えていない。(自社製品を無理に買わされている気の毒な社員かもしれない、という可能性を脇に置くとしても。)あくまで、「私はこの作品は出来がよいと思う」あるいは「私はこの作品は出来がわるいと思う」と表明するときのことを想定している。

1 評価を三つに区別する

 作品の評価には少なくとも三つの種類がある。客観的な評価、公共的な評価、私的な評価とでも呼べばいいだろうか。こららのどれも、「私はこの作品は価値があると思う」あるいは「私はこの作品は価値がないと思う」と表明することは変わらない。ここまでは同じなのである。では、どこが違うのか。そのあとに付与する理由ないしは根拠が違うのである。

・客観的な評価

 客観的な評価とは、その作品そのものがよくできているか、よくできていないか、という評価のことである。

 客観的評価は、作品そのものの特徴を理由に挙げる。芸術性でも娯楽作品としての完成度でもオリジナリティでもなんでもいい。作品そのものを分析したうえで、その特徴のありかたを根拠として下される評価、これを「客観的」と呼ぶことができる。

 ところで、よく間違える人がいるので注意しておきたいのであるが、客観的な評価とは、客観性を目指す評価であって、客観的に正しい評価のことではない。客観的評価について人々の意見が一致することはそうそうない。つまり、これが正しい客観的評価だ、という最終的な結論が定まることはそうそうない。しかし、だからといって、「客観的」という言葉が意味を失うわけではない。逆である。意見が食い違うのは、皆が客観性を目指しているからこそであり、互いに語りあうことによってその客観性に近づきうると信じているからこそである。後に述べる私的評価におけるように、評価は人それぞれということを前提にしてしまえば、そもそも意見が違う違わないということを問題にする余地すらなくなってしまうであろう。

・公共的な評価

 公共的な評価とは、その作品がみんなに騒がれたのか、騒がれなかったのか、ということである。

 公共的な評価は、作品が受容された状況を理由に挙げる。関連商品がどれだけ売れたか、薄い本がどれだけ出たか、2chの関連スレッドがどれくらい伸びたか、ニコ動の関連動画の再生数がどれくらいか、このような作品外の事情を根拠として下される評価が、「公共的」評価である。

 これまた誤解しやすいのであるが、この意味での公共的な評価はたんなる事実の問題であって、評価者本人がその作品についてどう考えているかとはまったく独立に下されるものである。評価、と名前はついているが、客観的評価および私的評価とは異なり、実はこれは正確には評価を下しているのではない。みんながどう評価しているかという、評価についての事実を述べているだけのものなのである。

・私的な評価

 私的な評価とは、自分自身にとって面白かったのか、つまらなかったのか、ということである。

 私的評価は、自分自身の感性を理由に挙げる。その人がどう感じたかだけを根拠として下される評価は、「私的」評価である。すなわち、私的評価は、根拠を云々することを端から放棄した評価である。そう感じたからそうだ、で終わりなのだ。その人の趣味嗜好が幼稚であったり歪んでいたりしていたとしても、当人がそう感じたこと自体は揺らがないのであるから、私的評価も揺らがない。私的評価は、自分の意見に責任を負うことを放棄するかわりに、他者から反論されることからは安全になっているというわけだ。

 このような事情なので、私的評価は他者にたいして作品についての情報を与えることにはあまり役立たない。では、私的評価は他者にとってまったく無意味かというと、そうでもない。私的評価は、その評価している当人の趣味嗜好についての情報を与えてくれはする。すなわち、自己紹介としては機能するのである。たとえば、ある作品にたいして屁理屈気味の根拠をもって駄作だ駄作だと粘着する相手には、ではあなたが認める作品はなんですか、と問いたくなるであろう。このような場合に我々は、納得のいかない客観的評価を下す人にたいして私的評価を要求し、そこから見てとれる趣味嗜好を手がかりに、その人の客観的評価の偏りを理解しようと試みているわけである。

2 三つの評価を混同すると

 これらの評価は、結果において相関するし、また、一致することもありうる。客観的によくできているとされる作品は、たいていみんなに騒がれるし、また、誰かに面白いと思ってもらいやすいはずだ。また、逆に、誰かに面白いと思ってもらいにくかったり、みんなに騒がれなかったりするということは、その作品のどこかに欠点があったはずだ、云々。しかし、このような相関があるからといって、これらの評価のあいだの区別がなくなるわけではない。心臓をもつ生物はすべて胃腸をもつが、心臓をもつことと胃腸をもつことは同じことではない。結果が重なることは、区別のなさを意味しないのである。

 さて、このように、三つの評価を区別することはできるし、また、区別すべきでもある。ところが、とりわけ具体的な作品を前にして興奮状態にあると、どうやらこの区別がこんがらがってしまう人が多いようである。たとえば、以下のようなタイプはネットなどでちょっと探せばいくらでも見つかるであろう。これらは明らかに支持できないものである。

・誤った主観主義者

 私的な評価しか存在しないと思い込んでいるタイプである。「あらゆる価値評価は主観的だ」とか、ドヤ、という感じで言い放ってしまう人をたまに見かけるが、これまで論じてきたように、これは勘違いである。

・独善的な評価者

 似ているがちょっと違うのが、自らの私的な評価をそのまま客観的な評価にしてしまうタイプである。つまりは「自分にとって面白いので、この作品はよくできている」と主張してしまう人である。ある人間の趣味嗜好は未熟であったり偏っていたりする場合があるので、客観的評価につねにきちんと一致するとはかぎらない。というよりも、そもそも、誰かの私的評価が、それだけで客観的評価の根拠になるということはない。客観的評価の証拠は、作品そのものについての分析に基づいていなければならない。独善的な評価者は、作品そのものについて語ることができる、ということをまず学ぶべきである。

・売り上げ厨

 私的な評価以外には公共的な評価しか成立しえない、と思い込んでいるタイプ、または、公共的な評価ををそのまま客観的な評価にしてしまうタイプである。たとえば、「売れるか売れないかだけが問題である」とか「みんなに騒がれているので、この作品はよくできている」とかいった主張をしてしまう人がそれにあたる。いわゆる売り上げ厨的態度そのままなので、これが駄目なことは今さら言うまでもないであろう。

・愛のない評論家

 客観的な評価にしか興味のないタイプであり、ジャンルの外から参入してきた連中に多い。三つの区別を混同しているというよりは、それらの区別のそれぞれにバランスよく目配りし損ねていると言ったほうがよい。この手のタイプの罪は、語ることがたいてい薄っぺらくてつまらないものになってしまうことにある。

・流されるニワカ

 公共的な評価をそのまま自らの私的な評価にしてしまう人である。たとえば、みんなと一緒に騒いでいるうちに、この作品は自分にとって面白いのだ、と思い込んでしまう人などだろうか。実は作品が楽しかったのではなく、作品をダシに盛り上がれたのが楽しかっただけ、というわけだ。最近の若い者はナントカ動画でコメントをつけることをアニメを鑑賞することだと思っていてケシカラン、と老人たちが言うときに敵として想定しているのは、このタイプである。

3 三つの評価の絡み合いの醍醐味

 混同してはならない、と述べた直後にそれをひっくり返すようであるが、否応なしに三つの評価が混ざってしまう場合もある。私は、作品についてなんやかやと語るときには、わりと意識的にこれらの三つを切り離し、どの評価を表明しているのかがわかるようにしている。しかし、ときに、それが上手くできなくなってしまう。例を挙げるとすれば、明らかに不出来な作品をなぜか好きで好きでたまらくなってしまったときとか、たいして興味のなかった作品なのに、ふとしたことで信者のコミュニティに紛れ込んでSSとかを読みふけっていたら、その愛の深さに洗脳されかかったときとかであろうか。前者の場合はどうしても「独善的な評価者」っぽくなってしまうし、後者の場合は明らかに「流されるニワカ」に近い状態に陥っている。このようなときには、なんとか自分の下している評価を整理しようとするのだが、さすがになかなか上手くいかない。しかし、逆に、こうして自分の立ち位置を見定めようといろいろと考えているときこそが、オタク的活動のうちでもっとも楽しい時間の一つである、とも言えるのかもしれない。

 先ほど、「独善的な評価者」や「流されるニワカ」といったタイプを支持することはできない、と述べた。しかし、趣味の人生が面白いのは、支持できないような態度に否応なしに突き動かされることがあるからなのである。

 逆に、きちんと三つの評価を整理するとどうなるか、も述べておこう。

 今現在、私が喜んで見ているアニメは、どうも仲間うちで評価の悪いものばかりである。『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』は「話にフックがないのでつまらない、一話見るのが辛かった」と言われてしまったし、『武装神姫』は「アレはつまらないだけでなく、正直きもちわるい」と言われてしまった。しかし、反論しようにも、哀しいことに、このような客観的な評価の正当性が私にはなんとなく理解できてしまうのである。そのため、現時点での私は、『おにあい』は面白い、『武装神姫』はかわいい、という評価を、たんなる私的な評価としてしか表明できないでいる、というわけだ。

 他方、『夏色キセキ』の円盤をちゃんと買い支えていると言ったら鼻で嘲笑われたのは絶対に許さない。こちらについては、私はたんに「自分が気に入っている」というだけでなく、「実は客観的にもよくできている」とも主張してしまっているので、挑発されたら戦争をしなければならない。こちらが、客観的な評価を表明している場合に採らねばならない態度ということになるのである。

おわりに

 このテキストは、ウェブログや掲示板に書いたものが元になっている。コメント欄で示唆をいただいた、しろねこまさん、ありがとうございました。

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