特撮愛の難しさ

はじめに

 東京都現代美術館で2012年夏に開催された特撮博物館に行ってきた。それが刺激になって、自分にとって特撮とはなにか、ということを少し考えなおしたので、思いつくままに記しておく。

 大まかな方向性を前もって述べておこう。庵野秀明や樋口真嗣のような人たちが好きでこだわっているようなところにたいする感受性が私にはどこか欠けていて、最後の最後で理解できないところがところどころに残った。実際のところは、これが世代のせいなのか個人的な趣味嗜好のせいなのか微妙なのではあるが、このような感覚をこれまでにもいわゆる第一世代の特撮オタにたいして何度か覚えたことがあったので、世代論の方向に少し傾いた語り口になっている。

特撮博物館

 最初に特撮博物館の感想を述べておこう。中身はさすがに濃いもので、想像以上に楽しめた。しかしながら、平日昼に時間を捻出したにもかかわらず、開催期間終了間近ということで混雑具合はなかなかに酷く、じっくりした鑑賞がいまひとつ難しい状態であった。ある人が、この混雑はあまりにも酷い、これではまともな運営が行われている展覧会とは言えない、このようなすし詰めで来場者二十五万だかなんだかを誇るのはおかしい、と批判していたが、私も半分くらいその意見に賛同する。

 ただし、同時に残りの半分で私が思うのは、美術館の特設展といっても、しょせんは特撮博物館はオタクイベントであり、オタクイベントであってよく、オタクイベントであるべきである、ということである。同類だらけの人ごみにもみくちゃにされてキレる寸前まで行きつつも、そのことで逆にプラスの意味でテンションが上がって楽しくなってしまう、という、いかにもオタクイベントにありがちな体験は、この企画の一部をなしていると言ってもいいのではないか。そう考えると、運営の拙さにたいしてそれほど怒る気にならなくなってしまうのである。少し甘いだろうか。

東映世代はまだヒヨコ

 特撮博物館における特撮魂は、やはり東宝円谷の魂なのである。しかしこれは、私にとっては一世代くらい前の価値観である。私を育てた特撮は東映なのであるが、特撮博物館における東映の地位は当然のように低い。この歴史的な価値評価そのものに別に異論はないが、個人的な記憶を遡るに、上の世代の東宝円谷系特撮魂はきわめて強靭で尊敬に値するものであったが、正直ときにウザかった。

道具としての特撮

 私の興味は、結果として成立するカットやシーンそのものの妙味にのみ向けられているようで、それがどのような技術によって出来たのかにはあまり向いていないようだ。いい絵であれば、それが伝統的な特撮技術でできたものであろうがCGでできたものであろうが、どちらでもいいのではないか、と思ってしまうのである。このような特撮をたんなる道具として扱う発想は、たぶん特撮博物館的には駄目なものとされてしまうのであろう。

 道具としての特撮という考え方を突き詰めれば、作品を鑑賞しているさいに特撮という技術のよさに注意が向くこと自体がおかしい、ということになるだろう。物語を語ることこそが主眼なのだから、それを支える技術は裏方に退くべきだ、というわけだ。私もさすがにそこまで潔癖なことは言わないが、伝統的な特撮オタの態度は、どうも技術への注目の具合が度が過ぎているのように思えるのである。

 このような思惑もあって、私は自分ではあまり「特撮が好きだ」とはあまり言わず、「ヒーローものが好きだ」「怪獣ものが好きだ」という表現を使うようにしている。「特撮」という言葉そのものが撮影技術への注目を示していることもあり、こちらのほうが私の感覚に近いのである。

伝統的特撮の愉しみ

 鑑賞後ならともかく、鑑賞中に技術に注目が行くのは、基本的にはそこに不自然さがあるときである。演技が棒なので声優が気になるのだし、パースがおかしいから作画が気になるのである。これまで、伝統的特撮が鑑賞中に技術に注意を払うという態度と相性がよかったのは、かつては特撮というものが、基本的にはどこまでいっても不自然なものであったからではないか。不自然さは必ずつきまとうものなので、伝統的特撮は、不自然を自然にしようとして頑張るよりも、観客の度肝を抜くという方向に進むことになった。つまり、伝統的特撮の快楽の一つは、「特撮といってもだいたいこれくらいしかできないだろう」という思い込みを超えるようなカットやシーンに驚く、というものであったのではないか、というわけだ。

 しかし、CGが一定程度発達して以降、見る側が「予算かけてCG使えばなんでもできるだろう」と思うようになってしまって、こういった楽しみがなくなってしまった。これを寂しがっている古参の特撮オタもいそうである。ところで、このような態度は、ノリとしては、ニコニコ動画などの一部のMADの楽しみかたに近いところがある。そのものとしてよくできているかを楽しむというよりも、「素人ならだいたいこれくらいしかできないだろう」という思い込みを超えた超えないを楽しむところに醍醐味がある、というわけだ。興味深いのは、特撮にしろニコ動にしろ、このような態度は「だいたいこれくらい」を一定程度理解している者にのみ許されるもので、ニワカには無理だ、ということである。伝統的特撮オタとニコ厨が内向きになるのは、似た論理に基づいているのである。もちろん、或る程度内向きになるのは趣味としては当然のことであるので、批判しているのではない。

ポンコツを許し愛せるか

 ところで、このような「だいたいこれくらいしかできないだろう」を超える、という鑑賞態度は、作品と鑑賞者のあいだの慣れ合いを導きがちである。「やりたいことはわかる」「頑張っている」「これが見られたのでもう満足」といった表現でもって、いまひとつな作品にたいしても楽しみどころを見つけることができてしまう、というわけだ。慣れ合い、と少々否定的な表現を用いたが、さらにこの先には、ポンコツ特撮のポンコツ具合を楽しむ、というマニアックな快楽が開けているのであろう。

 ただし、私はこれがあまり得意ではない。ポンコツ特撮を愛せないのである。たとえば『ゴジラVSキングギドラ』(1991年)とか、かなり苦痛である。修業が足りないのであろう。さらに、私はどうも物語とそのなかのキャラに目が行ってしまうので、特撮博物館の展示作品のいくつかにたいして、特撮技術的には注目すべきなのかもしれないけれども、やっぱりこれ退屈な駄作だったよね、とツッこんでしまった。このあたりもまた、伝統的な特撮オタ的には未熟な態度とされそうである。

宇宙の浪漫について

 特撮博物館の重要な要素を占めるロケットの浪漫が私にはどうもわからなかった。たとえば、兵器はわかる。だから、ドリルとか大砲とかがついていると大丈夫になる。しかし、素のロケットにどう燃えてよいものか困惑してしまうのである。これは私のまったくの個人的事情として苦手なところである。ついでに言えば、そもそも私は宇宙の浪漫がよくわからないのであるよね。そういえば、柏原麻実『宙のまにまに』にたいしても、物語を楽しみつつも、主題がどうにもピンとこない、という微妙な感じで接していた。

 もちろん、たとえば、頭上を振り仰げばいつもそこにある未知の世界、これが宇宙の浪漫なのだ、というように、言葉で説明してもらうと頭では理解できる。しかし、そこから先にどうも行かない。たぶん私は根本的な興味のありかたが宇宙向きではないのであろう。

 未知の世界ということで言えば、宇宙ではなく密林や深海のほうが私の好みに合う。異なる文明が栄えているとか、未知の生物が生息しているとかいった浪漫はわかるのである。自己分析してみるに、やはり私はドのつく人文系で、「文明」という発想に縛られているようである。未知への冒険ということで、「異文明への冒険」か「野蛮への冒険」かのどちらかしかピンとこないのである。科学技術が開いてくれる浪漫はやはりこれとはちょっと違って、もっと直球に未知なるもの不思議なものへと向かっていくように思う。そこが私の苦手なところなのである。

怪獣の浪漫について

 最後に、目玉企画であった巨神兵について付け加えたい。庵野秀明や樋口真嗣が怪獣ではなく巨神兵をもってきた、というところが興味深い。巨神兵は怪獣ではない。巨神兵は小理屈と設定の塊であり、対象年齢中学生以上のものである。怪獣はもっとアホっぽいものであり、対象年齢はぐっと下がって小学生以上から、となるだろう。そして、私が好きなのは怪獣なのであるよね。つまり、私は、せっかくなら東京を巨神兵にではなく怪獣に滅ぼしてほしかったのである。このあたりの趣味嗜好の違いは、世代というよりも個人的なものなのであろう。

おわりに

 このテキストは、ウェブログや掲示板に書いたものが元になっている。コメント欄や掲示板などでさまざまな示唆をいただいたみなさまがたに感謝したい。スケィスさん、nanashiさん、NBTさん、ありがとうございました。

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