『アイドルマスター XENOGLOSSIA』についての覚書

 『XENOGLOSSIA』という作品そのものは、私はとても好きである。実によくできていると評価している。しかし同時に、この作品は元々の『アイドルマスター』ファンの大部分の想いを軽視した失敗作であったとも思っている。作品としては勝ったが、そもそもの企画からして負けていた、とでも言えようか。

 私自身は元々の『アイドルマスター』、あるいは元々のキャラクターたちにはなんらの思い入れもない。しかし、この作品を頭から拒否した『アイマス』のファンたちの気もちはよくわかるし、その怒りはまったくもって正当なものであると思う。もちろん、そこで怒りにまかせて作品そのものの評価を歪めてしまうのはオタクの態度として下である。こんなの『アイマス』じゃないから駄作、と決めつけてしまうのは幼稚な振る舞いだ。しかし、そのような幼稚な振る舞いに大切なファンたちを引きこんでしまったのは、誠実さを欠いた企画そのもののありかたなのだから、自業自得と言えば自業自得であろう。

 『XENOGLOSSIA』を高く評価する人も少なくない。最初に述べたように、私もその一人である。しかし、良作が現状のような低評価に甘んじていることに苛立つあまり、この作品が企画として最初の一歩で大きく間違えてしまっていたことを無視すべきではないだろう。作品としてよくできていたからといって、企画の拙さが帳消しになるわけではないのである。

 というわけで、本題に入ろう。

 『XENOGLOSSIA』は物語として実によくできている。物語というものは、たいてい、葛藤とその解消を梃子にして進んでいくわけだが、その葛藤のつくりかたに明確な軸があって、まったくブレていない。メインのキャラクターたちは、すべて同じ価値を重視するところから行動しており、物語中のあらゆる葛藤はすべてここに根をもつように構成されているのである。

 では、その軸となる価値とはなにか。それは、特定の他者による個人的な承認に他ならない。天海春香、荻原雪歩、水瀬伊織、菊地真、如月千早、そしてここにインベルも含めてよいだろうか、メインキャラたちの行動原理はすべて、特定の他者に承認されることを求めてのものになっている。恋愛、友情、家族と、求める承認の種類は多々あれど、特定の他者による承認であることはみな同じ。『XENOGLOSSIA』は徹頭徹尾承認のドラマなのである。

 そして、この主題は各々のキャラにおいてさまざまなかたちで変奏されていく。すべてのメインキャラの個性の核は、承認をどのように求めるか、という角度から描かれる。また、キャラどうしの相互関係も、三角関係であったりすれ違いであったり片想いであったり一方的な愛だったりといった多様性を見せつつも、すべてが承認をめぐってのものになっている。さらに言えば、巨大ロボットものというジャンル設定や、知性をもつシリコン生命体というSF的なテーマ設定さえも、承認のドラマにおける他者の遠さを際立たせるための道具立てである。あらゆる要素が根本に遡れば承認という一点に行きつくわけで、この構造の一貫性はなかなかに見事なものである。

 さて、このように読むと『XENOGLOSSIA』の物語に足りないものも見えてくる。先ほど確認したように、この作品の軸となる価値は、特定の他者による個人的な承認に置かれている。そうであるならば、この価値を際立たせるためには、似てはいるが別の価値を対置させる、ということが求められるであろう。しかし、『XENOGLOSSIA』はこの点にかんしてはそれほど上手くやってはいない。大きく分けて、論点は二つある。

 一つめの論点は、承認されることが不可能になったときに、そこでの生をどう描くか、ということである。鍵となるのは、三浦あずさである。彼女は、自らを承認してほしかった他者を喪失している。この意味で、三浦あずさは先に挙げたメインキャラたちとは決定的に異質である。つまり、彼女はこの異質さをつうじて物語の軸に関わるべきキャラだったのである。しかし、物語中で、この点がきちんと描かれることはなかった。彼女の行動が、いまひとつ眼目の見えづらいものになってしまっているのは、このせいである。

 二つめの論点は、不特定多数の他者による承認、つまりは、社会的承認をどう位置づけるのか、ということである。『XENOGLOSSIA』は全般的にここが弱い。

 そもそも、アイドルチームは地球を地球をドロップの脅威から守るべき集団である。この役割は一定の社会的な承認を伴うものであるが、このことがメインキャラたちにとってもつ価値がいまひとつはっきりしない。そのため、クライマックスの地球の危機に立ち向かう状況が、あまりクライマックスに見えなくなっている。この時点で、主人公たる天海春香は、ずっと求めていた恋人と親友の個人的な承認を得てしまっているので、あとは蛇足に感じられてしまうのである。

 芸能活動もまた、社会的承認を求めて行われるものである。このことの位置づけも描写不足に感じられる。天海春香の芸能活動は彼女になにをもたらしたのか。マイナスしかもたらさなかったのか。なぜ双海亜美は芸能人に設定されているのか。高槻やよいの成熟した人格と包容力は、彼女の芸能活動とどのように関係しているのか。このあたりの点がきちんと固められていないために、どうも全体の軸までもがぼんやりしてしまった。

 敵役の一人である朔響の野心も、社会的承認を求めるものに他ならない。ここをきちんと描いておけば、彼はもうちょっと深みのある敵役になれただろう。しかし、惜しいことに、その野心の物語上の価値づけが明確でなかったために、このキャラは、たんなる状況の撹乱者で終わってしまった。工夫次第では、彼は、特定の個人ではなく社会一般の承認を求めるという、その生き方をもって、対比項として作品の軸に深く関わることもできたはずである。

 もちろん、これらはすべて枝葉の問題である。しかし、物語の軸が一貫しているだけに、このあたりの枝葉の部分の物足りなさが、少しもったいなく感じられてしまうのである。

 私から文句をつけるとすれば、これくらいであろうか。このテキストが今後の『XENOGLOSSIA』の正当な評価に寄与することを望んで筆を置きたい。

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