オタク文化におけるアンチ活動について

ダメオタ論の課題

 オタクのなかに困った振る舞いをする人たちがいる。これらの人々を、そんな振る舞いをする時点でオタクではない、と切り捨てることができれば簡単なのだが、そうもいかない。そういった困った振る舞いにも、オタク文化の特色が現れているように思われるからだ。

 これまでも私はこのような駄目なオタク(これまではヌルオタと呼んだこともあったが、以下ではダメオタと表記する)の振る舞いについていろいろと考察してきた。しかし、いまひとつしっくりした答えが得られなかった。そこで、少し考え方の方向性を変えてみたいと思う。

 これまで私は、ダメオタにはどのような能力が欠けているのか、という問いの立て方をしていた。どうもこれが上手くないようだ。たんに能力だけに注目すると、ダメオタの問題が個人的なものであるかのように捉えられてしまう。しかし、そうではない。個々別々にダメオタがいる、というだけでは問題にはならない。ダメオタ的な振る舞いが文化として共有されていることこそが問題なのだ。つまり、オタク文化のなかに組み込まれている、ダメオタ的な振る舞いを誘うような要素を特定することこそが、なすべきことなのである。

 ここで私が注目したいのが、アンチ活動という文化である。

アンチ活動文化とはどのようなものか

 アンチ活動とはなにか。アンチ活動とは、オタクの行うコミュニケーションゲームの一種であると考えられる。このゲームは、オタク文化とネット文化が交差する地点で、自然発生的に生まれてきたものである。

 ゲームである、とはどういうことか。明示的なものか暗黙のものかはともかく、なんらかのルールががあってはじめて成立している、ということである。すなわち、たんなる否定的感想の発表とか辛口批評の展開とかいった営みは、アンチ活動ではない。アンチ活動はある特殊なルールによって構成されており、そういったルールを参照することがなければ、アンチ活動は成立しえないというわけだ。

 では、アンチ活動とはどのようなルールをもつゲームなのか。アンチ活動のゲームとしての勝利条件は、ある作品について、説得的にそれがまったく価値のない駄作であることを主張する、ということにある。より説得力をもって駄作であると言えたほうが勝ち、ということだ。このようなアンチ活動は、批評や感想といった活動とはまったく異なるものである。批評であれば、ある作品の価値を適切に見積もることが目的となるだろう。また、感想であれば、素直に感じたことを述べるべきである。しかし、アンチ活動は違う。その作品の価値が実際にどうか、ということは問われない。それどころか、当人がどう感じたのかということさえも関係がない。その作品が無価値である、という結論はすでに決まっていて、その結論に向けてどれだけ適切に議論を組み立てることができるのか、ということのみを目指すゲーム、これがアンチ活動なのである。

アンチ活動の位置づけ

 アンチ活動が以上のようなものであるとしよう。では、我々はオタクとしてこれについてどのような態度を採るべきであろうか。

 オタクを語るさいに、アンチ活動を無視することはできないであろう。この活動は、オタクの行うコミュニケーションゲームの一種として、かなり広範囲に定着してしまっている。ただし、あくまでこれはオタクの本業ではなく、余技の部類に入る、ということは強調しておきたい。アンチ活動しかできないオタクはレベルが低いと言わざるをえないだろう。

 また、あることがらが定着しているということは、それが倫理的に善いものだということを意味しはしない。集団で誰かを吊るしあげ散々に叩きのめして愉しむ、という行為は、オタクだけでなく大衆が一般的に好むものであるが、どう言い繕おうが下品で陰湿でろくでもない行為であることは間違いない。

 ただし、洗練されたアンチ活動が、そのような愉しみを別にしても、独特の面白さをもつ、ということには注意が必要であろう。先に示したように、アンチ活動は、決められた結論をどれくらい上手に引き出すことができるのか、という、レトリックあるいは屁理屈の巧拙を競う知的遊戯としての側面ももつ。そして、よくできたレトリックや屁理屈は、それとして我々の知性を愉しませてくれるものである。この点は、倫理的な悪さとは独立に評価すべきであろう。

アンチ活動文化とダメオタ

 さて、このようなアンチ活動文化とダメオタとはどのような関係にあるのか。アンチ活動をする者がダメオタである、と短絡的に結びつけることはできない。アンチ活動はあくまで周縁的なオタク的実践の一つであるにすぎないからである。ここで注目すべきは、アンチ活動文化の副産物である。

 アンチ活動文化がいつごろ現在のようなかたちでまとまったのかは調査してみないとわからない。ただし、少なくとも、いくつかの独特の技法が生まれるくらいの歴史をもっていることは確かである。そして、その技法は、おもにダメオタたちの手によって、アンチ活動の文脈を離れて流通するようになっている。これこそが問題である。

 たとえば、視聴率の低さをあげつらう、売り上げの低さを馬鹿にする、制作者の人格を攻撃する、作品のファンを貶す、などといった言説がネットを中心にそこここで見られるようになった。これらは、まともな感想や批評の場では端的に的外れなものである。しかし、これほどまでに明確に的外れであるにもかかわらず、これらの言説を振りかざすダメオタたちは絶えない。この手の言説は、なぜこれほどまでに流通してしまったのだろうか。私はそこにアンチ活動文化の影響を見る。

 実は、これらはアンチ活動において発達した技法に他ならない。ある作品をとにかく貶すという目的を定めたうえで、レトリックや屁理屈を駆使してそれを達成しようとしたときには、たとえば視聴率の低さに言及して馬鹿にすることは一定の効果をもつだろう。つまり、アンチ活動という特殊なゲームの枠内では、これらの言説は的外れではなくなるのである。しかし、これはあくまでゲームの枠内でのみ通用するような技法であり、一定の文脈があってのテクニックである。ところが、ニワカオタクやヒヨコオタクは、こういった事情がわからない。そのため、こういった言説を、枠を超え文脈を無視して、そこここで、したり顔で言いたててしまう。アンチ活動という枠から外れてしまえば、これらはただの幼稚な悪口にすぎないのにもかかわらず。こうして、低レベルなダメオタ的言説が大量に発生することになる。実際のところ、「アンチ活動」と呼ばれているもののほとんどは、先に定義したような本来の意味でのアンチ活動ではなく、ダメオタによって変質させられたこのような疑似アンチ活動でしかない、とさえ思われる。

 このように、アンチ活動文化の存在とその影響を考慮に入れると、ダメオタたちの問題的な振る舞いがどうして止まないのか、そして、どうして一定のパターンに収斂するのか、ということが説明できるのではないか。彼女ら彼らの背後には、アンチ活動文化が存しているのである。

アンチ活動の心理学

 それにしても、どうしてアンチ活動文化はそれほどまでに一部のオタクたちを惹きつけるのであろうか。なんらかの共通の動機が背後にあるのでなけれそのば、アンチ活動文化であれ、そこから派生したダメオタ的言説であれ、これほどまでに流通するはずはないだろう。

 ここで私が注目したいのが、アンチ活動を正当化する論理である。すでに指摘したように、アンチ活動は、愉しくはあるが、基本的には明らかに不道徳なものである。アンチ活動にかかわるオタたちは、この不道徳さにたいして自分を誤魔化すための正当化の理屈を必要とするはずである。それが鍵になる。

 これまでは区別してこなかったが、アンチ活動には二種類の方向性がある。それらが依拠する自己正当化の論理は異なるので、区別が必要であろう。しかし、さらに遡っていくと、二種類のアンチ活動が共通の前提に基づいていることがわかってくる。

 一つめのアンチ活動は、プロフェッショナルにたいして行われるタイプのものである。こういった活動は歴史的に辿れば「風刺」のラインに位置づけられるだろう。風刺というのは基本的には権威や権力にかんして非対称性が意識されている場合にしか成立しえない。政治家、軍人、教師等々にたいして大衆の立場で行うのが典型、というわけだ。そして、「アーティスト」あるいは「クリエイター」もまた、一定の権威的存在と見なされるかぎりで、風刺の対象とされていくことになる。さて、このタイプのアンチ活動は、その悪意に満ちた攻撃を「お前たちはプロなんだから、これくらいされて当然である」というように正当化する。同時に、叩く自分たちは「客なんだから文句を言う権利がある」として、その暴力の責任を回避するのである。

 二つめのアンチ活動は、アマチュアの創作にたいして行われるタイプのものである。こちらのアンチ活動は、私の見るところでは、「思い上がりを正してやる」という意識に動機づけられている。「お前程度の腕で公に作品を発表するなんで、思い上がりだ」というわけだ。域に達していない相手を咎めているのだから、その活動は正当である、このような思考回路にもとづいてなされるのが、このタイプである。

 二種類のアンチ活動について、それぞれこのような論理で自分を納得させることで、オタクたちはアンチ活動に向かっている、と考えられる。

 さて、このように、二つのアンチ活動は、それを支える正当化の論理が異なっている。しかし、この二つの根っコには共通点がある。それは、どちらのアンチ活動も創作活動を聖域に置いている、ということである。創作活動は才能をもった者がすべきものであり、それ以外は受け手に甘んじるべきである、という前提があるからこそ、プロを名乗るのならばいくらでも叩いてもいい、という発想が出てくるし、また、アマが発表した作品にたいして不当に高いハードルを課したりする発想も出てくるのである。

 これはいかにも時代遅れの発想のように思われる。ネットの発達や同人活動の制度的な整備によって、アマが創作を発表するハードルがかなり下がり、また、プロとアマの境界もそれほど明確ではなくなっているからだ。

 しかし、忘れてはならないのは、今もなお、ほとんどのオタクはたんに受容し消費するだけの存在でしかない、ということである。過剰に創作活動を聖域化するバックラッシュと、そこに端を発するアンチ活動の隆盛あるいは暴走を支えているのは、このような「誰でも創作できる時代にもかかわらず、創作することができないオタク」たちの嫉妬、ルサンチマンなのではないだろうか。

謝辞

 本稿はウェブログのテキストを大幅に改訂したものである。しろねこま氏をはじめ、元テキストにたいして有益なコメントをくださった皆様に感謝したい。

ページ上部へ