総合的オタク美学のための諸構想

はじめに

 それなりに長いことこのサイトをやってきて、自分がなにを考えてきたのか自分でも全容を把握できなくなってきてしまった。そこで、少しこれまでの議論を体系的に位置づける作業をやっておきたい。これで自分がなにを語っているのか自分でも訳がわからなくなってしまうことが少なくなればよいのだが。

オタク論の方法論

 オタクについて語るときにどこからアプローチすべきか、という問題である。これについては私の立場は変わっていない。オタクは行為あるいは実践から論じられるべきである。オタク的な実践がまず規定され、しかるのちに、その実践を行っている人、あるいは、その実践を行う能力をもっている人を「オタク」と呼ぶのである。

オタクの本質

 では、オタク的実践とはどのようなものなのか。妄想することである、というのが私の答えである。妄想実践をすることがオタクの本質である、ということだ。あるジャンルを偏執的に愛好する、ということを「オタク」と呼ぶ語用法も存在したが、私はそれは採用しない。こちらは「マニア」と呼んで区別すべきである。漫画マニア、アニメマニア、ゲーマーなどは、それだけではオタクたりえない。この立場も、細かい点で考えを変えたり深めたりしたところはあるが、基本的には変わっていない。

オタク的実践の優劣の基準

 上の議論は、オタクかオタクでないか、という基準を巡るものであった。ついで問題になるのは、ある人間がオタクであるとして、どのような基準でオタクとして優れている、あるいは、劣っている、とされるのか、ということである。オタクの本質の問題と、オタクとしての優劣の問題とは、とりわけいわゆる「ヌルオタ論」の文脈において、混同されがちである。しかし、この二つは別の問題である。

 このあたりの議論はいくつかのテキストを書きながら詰めていったので、時期によって少しづつ立場が変わっている。現在の私の立場をまとめておけば、以下のようになる。

 オタクの本質が妄想実践にあるのだから、オタクの優劣も妄想実践の優劣で評価されるべきである。では、優れた妄想実践とはなにか。一定のオタク文化の文脈を踏まえたうえで独創性を発揮している妄想、これが優れたものとされるのである。独創性がなければ価値がないのは当然のことである。しかし、独創性だけでは不十分であろう。意識的にしろ無意識的にしろ、その妄想がオタク文化の文脈を踏まえていなければ、オタク的実践として評価されることはないからだ。このあたりの事情は、一般的な芸術の場合と同じである。絵画や音楽の創作において、独創性とたんなる思いつきを区別するのは、一定の文化的コンテクストに則っているかどうかである。妄想実践もこれに準じるというわけだ。

オタク的実践の中心と周縁

 私はオタクの本質を妄想実践に置く、と述べた。これはすなわち、妄想実践以外のものごとをオタクとは無関係なものとみなす、ということである。しかし、ここで問題が生じる。妄想実践そのものではないが、それを前提としてのみ成立するような複数の実践があるからだ。このような実践は、オタクの本質を構成しはしないが、オタクにしかできない、という意味では、オタクの理解にとって切り離せないものである。そこで、私はこのような実践を「周縁的なオタク的実践」と名づけたい。

 このオタク的実践における中心/周縁の区別もまた、オタク/非オタクの区別、優れたオタク/劣ったオタクの区別とは異なる問題設定に基づくものなので、注意しなければならない。

 周縁的なオタク的実践として私が考えているのは、たとえば以下のようなものである。私がかつて定式化した、エンタメ批評。オタクコミュニティ内で芸としてなされる諸活動、典型的には、信者活動とアンチ活動。声優やオタク系アーティストなどにたいするファン活動。オタク系イベントへの参加。他にもいろいろとあるだろう。これらはどれも、そのものとしては妄想実践ではない。しかし、どれもオタク文化を一定程度理解していることを前提としているために、周縁的ではあるがオタク的実践として位置づけられるべきである。

 こういった周縁的なオタク的実践にかんしては、これまであまり体系性を意識せずに、個別的にテキストを書いてきた。あらためて全体的な位置づけをはっきりさせておけばこうなる、ということである。

 ただし、このあたりのことがらを論じることには独特の難しさがある。周縁的であるがゆえに、オタクではない人間が参加することも可能であるからだ。たとえば、アンチ活動にかんしては、愉快犯的なアンチをどう位置づけるかは問題となりうる。また、声優にかんしては、そのアイドル化に伴ってアイドルオタクという微妙に論理を異にする文化が流入している。イベントについては、イベント参加のみを目的とする層の出現なども問題となりうる。こういった問題をどう考えるかは課題となるだろう。

おわりに

 このくらいで現在の私のオタク論における問題関心の領域はほぼカヴァーできるだろうか。大まかな流れとしては、このテキストで挙げた順番に関心が移行していった、と思っていただいてよい。ただし、過去のテキストには、自分でもどこの作業をやっているのか整理がついていなかったものが多くある。たとえば、オタクの優劣の基準を論じるさいに言及される背景としてのオタク文化と、周縁的な実践であるところの信者活動やアンチ活動を論じるさいに言及されるオタクコミュニティとは、双方オタクの共同性という論点にかかわりつつも、位相の異なるものなのだが、かつての私はこれらを少々混同していた。しかし、こういった欠陥は今さらどうしようもないのでそのままにしておく。

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