コンシュマーギャルゲー1998年の奇跡

 昔の話をしよう。

 人間というものの根っコはいつの時代も変わらないもののようだ。どこぞの紀元前の遺跡から「最近の若い者はなっていない」と書かれた石板だかパピルスの切れ端だかが見つかった、という話を聞いたことがある。時間的スパンこそ短いが、オタク文化においても似たようことが生じはじめている。たとえば、「最近の作品は薄っぺらい」「最近の若い者は脊髄反射で買い物するだけ」「最近の若いオタクは勉強しない」といったような言説は、十年、いや、二十年以上も前から存在していたものだが、今なお飽きられることなく繰り返されている。どうやらこの語り口、世代から世代へとリレーのように受け継がれているようだ。かつて若い世代とひとくくりにされていた連中が、いまや説教ごっこをする側に回っているのである。このように、時代が変わった、という印象は、多くの場合、たんなる錯覚でしかない。

 ただ、そのような錯覚を年寄りがもってしまうこともわからないでもない。 たしかに、その時代ならでは、と言うほかない現象もあるからだ。それが歴史というものだ。たとえばコンシュマーギャルゲーの歴史を振り返ってみよう。90年代後半、コンシュマーギャルゲー文化はカンブリア紀の珍生物のごとくに爆発的な多様性をみせて進化した。あのときの記憶が残っていると、『アイマス』やら『ラブプラス』やら『アマガミ』やらにメディアミックス系のキャラゲーも加えて百花繚乱入り乱れている最近の状況も、それほど驚くべきものではないように思えてくる。今の時代は、たしかに豊穣ではある。しかし、言うほど混沌ではない。90年代当時の雑多な実験作が入り混じったカオスな状態は、こんなものではなかった。あのイカレポンチな大繁殖は、たしかに時代に特有の現象だったのだ。それが正しいかどうかは別として、年寄りにはどうしてもそう思えてしまうのである。

 そういった観点からして興味深いのは、1998年であろうか。この年はちょっとおかしい。1998年発表作のラインナップから、私の主観的な記憶に残っている度合いの強さで十本挙げて並べてみたリストを見ていただきたい。

  1. みつめてナイト
  2. サクラ大戦2 〜君、死にたもうことなかれ〜
  3. プリズムコート
  4. 悠久幻想曲 2nd Album
  5. 久遠の絆
  6. ひみつ戦隊メタモルV
  7. お嬢様特急
  8. 星の丘学園物語 学園祭
  9. エリーのアトリエ 〜ザールブルグの錬金術士2〜
  10. ファーストKiss☆物語

 なんということだろう。90年代コンシュマーギャルゲーの梁山泊がこの年だけで完成してしまうほどである。ちなみに同年に出たものでも、移植版やらリメイク版やらは除いてある。それでこれだけ揃うのである。こうして眺めてみると、先行諸作品が地ならししてくれた土台を上手に使った作品が多いことに気づく。どうやらこのあたりで、当時の技術で可能な範囲でのギャルゲーのヴァリエーションがひととおり揃った、と言えるのではないか。まさしく進化の大爆発が極限に達した瞬間と言えよう。ちなみに、アトリエシリーズなどについては、狭義のギャルゲーに入れていいのかどうか問題があるかもしれない。とりあえずここでは、後世への影響力も含め、「ギャルゲー」の定義を目いっぱい広く採っている。

 切りよく十本挙げたが、もちろんこれだけではない。伝説の超問題作『センチメンタルグラフィティ』もまた、1998年。PC成年向けゲームでは、あの歴史的名作『ONE 〜輝く季節へ〜』が1998年に発表されている。入れていいのかちょっと迷ったあげくやはり外した『東京魔人學園剣風帖』も1998年であった。恐怖の大王が前倒しで襲ってきたような年だったわけだ。

 ところで、私などはこのような感じで盛り上がるわけだが、これがどれくらい今の若い子に通じるやら。干支ひとまわり以上の年月が経って、90年代どころかゼロ年代すらも過去のものとなり、かつてこれらの作品ごと、キャラクターごとにテキスト系ファンサイトをつくっていたような人々は、ほとんどネットからは消え去ってしまった。私がこのサイトを立ち上げたころは、まだ少し生き残っていたのであるが。というわけで、その寂しさを紛らわせるように、リストの最初の三作品をネタにして懐古な語りに少しだけ浸るとしたい。思い出補正が多分に入っていることはたしかだが、『みつめてナイト』『サクラ大戦2』『プリズムコート』、この三作品は私の好きなコンシュマーギャルゲーの上位ランクを今でもしっかり守っている。興味深いのは、なぜ好きか、という理由がなんとはなしに共通しているところである。鍵は「シチュエーション」である。これらの作品においては、物語の展開のなかで成立するシチュエーションが実に痺れるものになっていて、私にとってはそこがたまらないのである。ゲームを語るポイントは、ゲーム性であるとかキャラクターの造形であるとかストーリーの語り口であるとか多々あるわけだが、ここではそこに注目してみたい。記憶のみに頼っているので適当なところも多いが、そのあたりはご容赦を。また、どれも古い作品なのでネタバレには気を使っていない。

 『みつめてナイト』。

 『みつめてナイト』は『ときめきメモリアル』と同様のシステムを採用しつつつも、舞台を仮想世界に移し数段濃い物語性を組み込むことで、知名度こそ本家には劣るものの、狂信者を獲得することに成功した。私もかつての狂信者のひとりである。

 本作品、物語の濃さがヒロインの社会的地位によって変わってくるあたりが心憎い。王家の娘とたんなる街娘では背負っているものが違うので、ラブストーリーの濃さもまた違ってくる、というわけだ。庶民の娘に狙いを定め、それなりにステータスを上げ、ささやかな恋物語を紡ぐのも、これまたひとつの人生。しかし、そこここで強調しているように、私の好みのノリは、燃えあっての萌え、である。すなわち、愛してはいけない女を愛してしまってこその『みつナイ』というわけだ。自分が仕える王国の姫君とか、敵国の総大将の娘にして潜入中の特殊工作員とか、井上喜久子声のかつての上官の未亡人とか、もう駄目、ヤメテ、お腹一杯、というところにさらに大盛でおかわりが来る、というようなドラマのコテコテっぷり。こういう娘に「私を攫って」と言ってもらえたときのカタルシスは、もう、ね、なんか、ね、言葉にならない。

 プリシラ・ドルファン、ライズ・ハイマー、クレア・マジョラム、と三人挙げたが、地味に私が好きなのは病弱眼鏡っ娘セーラ・ピクシスでねえ。物語のラストで主人公は戦勝の英雄でありながら国を追われることになるのだが、病弱の身であるセーラは彼とともに行くことが叶わない。再会を期しての涙の別離と相成るわけだが、このラストが後日譚にかんする私の妄想をかきたててやまない。下世話な話で恐縮であるが、私はこの時点で絶対に二人はヤッていると思うのよ。そして、主人公出国後、セーラは子ども、これは息子がいいかな、を出産。そして十五年後あるいは二十年後、ふたたび生じたドルファン王国を巡る陰謀に成長した息子が巻き込まれ絶体絶命のピンチに。そこにオヤジ颯爽登場。なんで母上を捨てたんだ、いや誤解だ、とかすったもんだしつつ、陰の巨悪に父子で立ち向かう、とかどうよ。別離エンドの後日譚としてはベタベタの黄金パターンではないか。こういった妄想込みで、セーラは好きであったなあ。

 『サクラ大戦2』。

 この作品についてはもはや説明は不要であろう。サクラ大戦シリーズのシナリオにかんしては、いろいろと不満がないわけではない私であるが、そこここに挟み込まれる「絵になるシチュエーション」の破壊力にかんしては、十二分にその価値を認めるにやぶさかでない。ここではクライマックスではなく物語途中のサブエピソードに注目したい。

 『サクラ2』、私はレニ・ミルヒシュトラーセがいちばんのお気に入りである。いろいろとポイントは挙げられるのであるが、ここで注目したいのは、正月のイベントである。これは素晴らしい。お正月、華撃団の隊員たちのほとんどが帰省したりなんだりで帝劇を離れてしまうのだが、身寄りのないレニだけは独りぼっちで残されてしまう。そこで大神一郎がお出かけに連れて行ってあげるのであるが、このシチュエーションが実にいい。この状況において大神さんが見せる、軍事部隊の指揮官というよりは学校の先生みたいな優しさと気配りに、私は心底惚れてしまう。なんていい男なんだ。一般に、サクラ大戦シリーズは「大神さんをかっこよく描く」ことに成功したところは面白く、それに失敗したところはつまらない。そして、ここは屈指の成功例の一つだと私は思う。そのような大神さんの魅力を引き出しえた、ということで、レニの評価も上がった、というわけだ。このあたりは、キャラ萌えというよりはカップリング萌えの論理が働いている。

 『プリズムコート』。

 この三つのうちではいちばんマイナーかもしれない。バレーボールの育成シミュレーションゲームとして恐るべき完成度をもつことでもしばしば言及される。キャラクターの個々のパラメーターがまったく上がっていなくとも、キャラ相互に設定されている仲のよさがレベルアップするだけで、面白いようにボールが繋がってこれまで歯が立たなかった相手チームに勝てたりするのである。この絶妙なバランスには驚嘆させられる。しかし、今回はこの点には触れるのみに留める。

 誰が好きって私は笹沢早苗の一択なのであるよね。いまだに丹下桜キャラの最高峰は彼女である、との信念は揺らぐことはないね。彼女のドラマの魅力を一言で表現すれば、スポ根における青春は燃え上がるだけではなく美しく燃え尽きるところまで描いてこそ、ということになろうか。

 主人公はかつての名選手。怪我で引退を余儀なくされ、しがない教師として失意の日々を送る毎日。ところが、あるとき、ひょんなことから女子バレー部の監督を務めることになる。そう、『プリズムコート』とは一度人生に挫折した漢の再生の物語なのである。そこで、早苗だ。そんな主人公が自らの果たしえなかった夢を託した教え子たちのひとりが早苗であるわけなのだが、彼女もまた病魔に冒され、バレー選手としての生命を断たれてしまうのである。しかし、だ。主人公のような挫折と失意の道を早苗は歩むことはない。三年目夏の全国大会決勝、人生最後の試合に、笹沢早苗は自分の夢に加えて主人公の夢まで背負って、すべてを賭けて戦い、悔いなく燃え尽きるのであるよ。ではなぜ彼女には、かつての主人公にできなかったことが可能だったのか。答えは簡単である。主人公との愛だよ。そして仲間との友情だよ。愛と友情だよ。これだよこれ。私の妄想では、選手引退後の早苗は教師の道を選び、何年かのちの朝霧高校女子バレーボール部の鬼監督になっている。これまた王道である。

 こんな感じで話をしていると、いやいや、濃いドラマであればPC成年向けのノベルゲーあたりにいくらでもあるではないか、と言われそうであるが、それはちょっと違う。ノベルゲーで読むドラマと、RPGやらシミュレーションやらをプレイするなかで巻き込まれるドラマとでは、楽しみのツボが異なる。どちらかでどちらかを代替することはできない。「なにかプラスギャルゲー要素、そしてドラマ」という構成には独特の味わいがある。そして、上のラインナップを見ればわかるように、90年代あたりのコンシュマーギャルゲーにはそういうゲームが多かったのだ。最近で言えば、『ペルソナ4』とか『ルーンファクトリー3』とか『クリミナルガールズ』あたり、私はたいへんに好きなのであるが、つまりはそういうことなのである。

 それにしても、コンテンポラリーな話題作について語るのももちろん楽しいが、昔語りもまたよいものであるな。ずっと詰まっていたものを吐きだせたような快感がある。

ページ上部へ