『魔法少女まどかマギカ』の物語構成上の問題点

はじめに

 面白かったか、と問われれば、それはもちろん面白かった、と答える。これに肩を並べられる出来の作品など、ここ数年でいくつもなかった。しかし、そこは認めつつも、それでもなお、私は『魔法少女まどかマギカ』には重大な問題点がある、と主張したい。端的に言えば、物語の幹の部分の組み立てが甘いのである。巴マミ、美樹さやか、佐倉杏子、暁美ほむら、このあたりのキャラクターのエピソードは、手を変え品を変え、上手なかたちで描かれていたと言えよう。しかし、これらのエピソードは、作品全体にとっては枝の部分にすぎない。これらを統合すべき物語の幹を形成するのは、鹿目まどかの物語であったはずだ。しかし、これがどうにも描けていない。それゆえ、個別の部分は面白くとも、全体をとおしてみると、序盤から中盤にかけてはもっさりした印象が出てしまうし、終盤から結末への展開は、理屈としては綺麗なのだがカタルシスがいささか足りないものになってしまうのである。ちなみに、暁美ほむらがもう一人の、あるいは実質的な主人公であるかのように見えてしまうのは、こういった物語構成上の問題点に由来するたんなる欠陥であって、それ以上でも以下でもない。制作スタッフの後づけのコメントなどに騙されてはいけない。ということで、本稿では、鹿目まどかの物語の問題点を考察していくことにしたい。

解釈上の一般的な注意点

 具体的な議論に入るまえに、一般的な確認をしておきたい。『魔法少女まどかマギカ』解釈には、他の作品を解釈する場合とは少々異なる事情がある。それは、この作品が明らかに、物語形式が異なり相互に排斥しあうはずの複数のストーリーラインが整理されないままに混線させられた構成になっている、ということである。つまり、そのままでは整合的に物語全体を一貫して読み切ることが不可能なのである。この前提を共有してはじめて、私と同じ『魔法少女まどかマギカ』解釈の出発点に立ったことになる。

 では、『魔法少女まどかマギカ』解釈とはどのような作業なのか。それは、三つの行程からなる。第一に、混在している複数のストーリーラインを分析し整理すること。第二に、整理されたストーリーラインから、もっとも作品の価値を高めると思われるものを一つ選び出すこと。第三に、そのストリーラインを軸に全体を再構成するにはどうしたらよいのか、という改変の提案をすること。これら三つが揃ってはじめて、『魔法少女まどかマギカ』全体について一つの解釈が提示されたことになる。たとえば、たんに、こことここをこう読むと面白い、という提案をするだけでは、二番目の行程しか行っていないことになり、解釈としては不十分である。それに加えて、その読みで取り残される部分への目配りが必要とされるのである。

 ちなみに、『魔法少女まどかマギカ』の魅力はまさに一貫した解釈を許さないような混線状態にあることに存するのだ、という切り口もありえ、一定の説得力をもちうる。しかし、本稿ではとりあえずこの線は採用しない。

『魔法少女まどかマギカ』の構造解析

 さて、では、『魔法少女まどかマギカ』はどのような構造をもち、なぜ混線状態に陥ってしまっているのか。私の理解は以下のようなものである。

 巴マミ、美樹さやか、佐倉杏子、暁美ほむら、これら四人のキャラクターは、それぞれ固有の物語をもつ。これを、さしあたりサブストーリーと呼んでおく。彼女たちのサブストーリーは、すべてその物語形式を異にしている。巴マミのサブストーリーは、古典的悲劇の形式をもつ。すなわち、いちばん欲しいものを手に入れた瞬間に死が訪れる、というパターンである。美樹さやかのサブストーリーは、青春挫折物語の形式をもつ。すなわち、少女が背伸びして大人になろうとして失敗し、堕ちる、というパターンである。佐倉杏子のサブストーリーは、ハードボイルドの形式をもつ。すなわち、死に損ないが、死に場所を見つけて、死ぬ、というパターンである。暁美ほむらのサブストーリーは、忍ぶ愛という形式をもつ。すなわち、伝わらなくてもいい、と思っていた愛が、最後に伝わる、というパターンである。このように、四人のキャラクターにそれぞれまったく物語形式の異なるサブストーリーが用意されている。

 『魔法少女まどかマギカ』の問題は、これらのサブストーリーを上位で統合するような原理が欠けている、という点にある。どのサブストーリーも、そのものとしてはきわめて完成度が高く魅力的なのであるが、物語全体を統合するほどの支配力はもたない。しかしながら、その一方で、それらすべてを包含するような大きな物語を見いだすことも難しい。そのため、全体として混線状態に陥ってしまっているのである。さて、諸々のサブストーリーを上位で統合するような原理が欠けている、ということはすなわち、主人公たる鹿目まどかの物語が明確ではない、ということである。鹿目まどかの物語をどこにどのように見いだすかが、『魔法少女まどかマギカ』解釈のもっとも重要な論争点なのである。

既存の解釈の傾向および本稿の解釈の概略

 さて、多くの『魔法少女まどかマギカ』解釈は、鹿目まどかの物語を上述の四つのサブストーリーのうちのどれかに寄り添わせる、という方針を採用している。もっとも多いのは、暁美ほむらのサブストーリーに寄り添わせるものである。いわゆるまどほむダブル主人公解釈というわけだ。次いで多いのが、美樹さやかのサブストーリーに寄り添わせるものであろうか。こういった解釈は、一見すると魅力的なものではある。しかし、私はこれらを採用しない。というのも、この手の解釈は、一見すると元の物語を尊重しているように思えるが、実のところは、選ばなかった他のサブストーリーにかんして、かなり大きな位置づけの改変を提案せざるをえなくなるからである。たとえば、鹿目まどかを暁美ほむらに寄り添わせすぎると、物語の中盤部分が深刻なかたちで浮いてしまうだろう。また、美樹さやかに寄り添わせすぎれば、物語の終盤部分をかなり変えざるをえなくなる。これらの解釈は、第一印象よりもはるかに改変コストがかかるものなのである。

 そこで、私は、それらのサブストーリーとは独立に、鹿目まどかだけの物語を際立たせていくことで、『魔法少女まどかマギカ』全体を統合することを試みたい。つまり、全体を、大きな鹿目まどかの物語に包含された群像劇として解釈する、ということである。このような解釈を採用することで、四つの魅力的なサブストーリーをほとんど改変することなく保存することが可能となる。私の解釈は、一見すると大幅な改変を提案しているように見えるが、実のところは、比較の上では改変コストのかなり少ないものなのである。では、以下、具体的な議論を展開していこう。

鹿目まどかの物語の形式はなにか

 鹿目まどかは物語の結末になるまで決断せず、行為もしない。それをそのまま描いてしまえば、いくら他のキャラの物語が魅力的に展開されていたとしても、物語の流れが停滞しているような印象を視聴者に与えてしまうことになる。やはり彼女こそが主人公なのだから。では、結末になるまで決断せず、行為もしない主人公を据えつつ、物語に緊張感を与えるためにはどうしたらよいのか。一つの答えは、サスペンスあるいはスリラーという物語形式を採用する、ということである。

 サスペンスでは、主人公がある困難な状況に陥ることから物語が始まる。ここで重要なのは、その困難な状況がどのようなものであるのか、その全貌を主人公が認識していてはいけない、ということである。とにかく困っているのだが、その困った状況が、どんなもので、誰のせいで、どうすれば解決するのか、よくわからない。これがサスペンスの出発点となる。そこで、主人公は、困難な状況の全貌を認識しようと四苦八苦することになるのだが、これがサスペンスのドラマ部分を構成する。そして、主人公がすべてを認識したとき、そのことによって、困難な状況は解決へと導かれる。ここにサスペンスのカタルシスが生じる。主人公が状況の全貌を認識している場合には、サスペンスは成立しない。そのかわりに、アクションものなどが成立することになる。

 たとえば、トミー・リー・ジョーンズが憎たらしい映画『逃亡者』は、サスペンス要素が軸になっている。主人公のキンブル医師は無実の罪を着せられるわけだが、この困難な状況は、真犯人が誰であり、自分に罪を被せた黒幕が誰であるかがキンブルにはまったくわからない、ということから構成されている。そこで、キンブルは逃げ回りながら、状況の全貌を認識しようと苦闘するわけだ。ところが、同じくトミー・リー・ジョーンズが憎たらしい映画『沈黙の戦艦』はまったく違う。主人公のコックはテロリストに占拠された戦艦内で孤立無援の戦いを強いられるのだが、この困難な状況は、たんに装備十分の敵がたくさんいる、というだけのことであって、状況の認識が不十分であることにかかわるものではない。誰が悪人かははっきりしている。やるべきことも明快だ。奴らを皆殺しにすればいいのである。それゆえに、この作品はサスペンス要素のないシンプルなアクションものとなる。

 つまるところ、サスペンスとは、状況の認識をめぐる物語なのである。さて、鹿目まどかは、物語の結末まで決断や行為を禁じられている主人公であった。決断や行為ができないのであれば、あとは認識する、ということに引っかけて物語をつくるほかないだろう。つまり、鹿目まどかの物語もまた、サスペンスという形式を採用すべきなのである。

 別の角度から考えてみよう。鹿目まどかの物語の結末は、彼女が魔法少女たちに課せられたゲームのルールを打破する、というものであった。さて、このようなルールブレイクものには、いくつかのパターンを区別することができる。要点は、そのキャラがどうしてゲームのルールを打破できたのか、ということについての物語的な説得力をどのように確保するのか、ということにある。注意していただきたいのだが、重要なのは、キャラの能力ではなく、物語的な説得力である。主要なパターンは、三つくらい考えられる。一つめのパターンは、そもそもそのキャラがゲームの外部からの参入者である、というものである。二つめのパターンは、ルールを打破するかわりに、なんらかの代償を払う、というものである。三つめのパターンは、ルールの裏をかいて出しぬく、というものである。

 さて、鹿目まどかにとって、一つめのパターンは設定上ありえない。二つめのパターンは可能ではあるが、実はそれほど有効ではない。というのも、打破すべきゲームのルールそのものが、代償をもって魔法少女となる、というものであるので、ネタが被ってしまい、あまりルールを打ち破った感じがしなくなってしまうからだ。そこで、鹿目まどかの物語が目指すべき方向は、三つめのパターン、ルールの裏をかいて出しぬくものであるべきだ、ということになる。

 では、ゲームのルールを出しぬくためにはどうしたらよいのか。それは、ルールの実質をより深く認識すること、これ以外にはありえないだろう。つまり、鹿目まどかの物語は、認識によるルールブレイクもの、という形式を採用すべきなのである。

 二つの観点から、鹿目まどかの物語がどのようなものであるべきか、ということを確認した。ここで注意すべきは、どちらの観点からも、鹿目まどかの認識という営みこそが物語の軸となるべきである、という結論が導かれたことである。つまり、主人公である鹿目まどかが、いつ、どこで、どのような情報をどれだけを得たか、ということが、物語を構成していかなければならないのである。では、このことに『魔法少女まどかマギカ』はどのくらい成功しているのであろうか。

物語の出発点

 物語の出発点で、鹿目まどかは困難な状況に陥らなければならない。そうでなければ、物語が始まらない。ところが、まずこの段階がまずい。

 鹿目まどかの困難な状況とは、魔法少女になるかならないか、という選択を迫られる、というものである。言うまでもないが、代償となる願いが決まらない、などといった些細な問題は、物語を駆動するものにはなりえない。では、その選択がどうして困難な状況であるのかというと、それが、どちらを選ぼうが悲劇しか生じない、というディレンマを構成しているからだ。さて、魔法少女になった場合に招かれる悲劇については、作中で十二分に語られている。これはいい。問題は、それと並ぶディレンマの角のもう一方、魔法少女にならなかった場合に招かれるであろう悲劇の描写である。こちらの描写は不十分であったと言わざるをえない。ディレンマを深刻なものとするためには、魔法少女になったがゆえの悲劇を描くのと同じくらいの強さで、魔法少女にならなかった場合に予想される惨事を示しておくべきであった。魔女を野放しにすることの一般的な危険性は、不十分ながらも、志筑仁美などを使って描かれていたかもしれない。しかし、それではディレンマの角としては弱すぎる。近づきつつある最大の敵、ワルプルギスの夜の脅威の途方もなさを、もっと早い段階で鹿目まどかにきちんと認識させておくべきなのである。それではじめて、ディレンマが鮮烈なものとして成立するのだ。これを怠ったために、鹿目まどかの逡巡がもさもさして見えてしまうのである。

物語の展開

 物語の展開は、鹿目まどかが自らの陥った困難な状況の全貌を認識していく、というものでなければならない。しかし、この段階にも問題がある。

 物語の進展にしたがい、巴マミ、美樹さやか、佐倉杏子は次々とその命を散らしていく。ここで、このような魔法少女たちの死が、物語においてどのような機能をもっているのか、ということに注目しなければならない。それは、言うまでもなく、主人公たる鹿目まどかに、魔法少女の置かれた困難な状況の全貌を認識するための手がかりを与える、というもの以外ではありえない。彼女たちの犠牲とともに、段階的に、魔法少女を巡る過酷なゲームのルールの真の姿が暴かれていくというわけだ。このあたりの構成はきわめて技巧的に組上げられており、見事なものである。しかし、問題は、鹿目まどかの認識のしかたである。物語展開に緊張感を与えるためには、魔法少女たちの犠牲から、鹿目まどかが真実への手がかりを一つ一つ読みとっていく、というように、認識の進みゆきに主人公の能動性を発揮させていくべきである。ところが、本作においては、ゲームのルールにかんする情報は、ほとんどインキュベイターからの語りによって、受動的に与えられるだけになってしまっている。これでは物足りない。サスペンスの主人公である鹿目まどかは、もっと積極的に自分から真実を知りたいと欲求する主人公であるべきであった。決断や行為が後回しになるぶん、認識において能動性を示しておくべきだったのである。それが欠けているから、中盤、鹿目まどかがたんなる傍観者でしかないように見えてしまうのである。

物語の結末

 物語の結末は、鹿目まどかが自らの陥った困難な状況の全貌を認識し終わり、その認識にしたがって、困難な状況を打破する、というものでなければならない。さらに、その打破のしかたは、ルールの裏をかいて出しぬくというものであるべきであった。しかし、この段階もまた、大きな問題を孕んでいる。

 それは、暁美ほむらのエピソードの機能にかかわる。巴マミ、美樹さやか、佐倉杏子のエピソードは、鹿目まどかにとって、真実に辿りつくための手がかりとしての機能を果たしていた。ところが、暁美ほむらのエピソードは、鹿目まどかにとって、なにひとつ役に立っていない。それどころか、鹿目まどかに認識されてさえいない。これでは駄目だ。物語としての一貫性が崩れてしまう。暁美ほむらのエピソードは、鹿目まどかに、魔法少女をめぐる過酷なゲームのルールについて、すべての謎を明らかにする、パズルの最後の一ピースを与えてくれるものでなければならなかったのである。

 さらに重要なのは、暁美ほむらのエピソードは、本来、インキュベイターにとっても認識の外にあるものだった、ということである。これはすなわち、暁美ほむらのエピソードをインキュベイターに先んじて共有することで、鹿目まどかははじめてゲームマスターたるインキュベイターにたいして認識上優位に立つことができる、ということを意味する。これはもう、ここでルールの裏をかいて出しぬくパターンのルールブレイクをやってくれ、と言わんばかりの状況である。ここでなにか決めの一手を放つべきだったのだ。ところが、この絶好の機会を『魔法少女まどかマギカ』は完全に見逃してしまう。わけがわからないよ。これは、将棋で言えばタイトル戦で三手詰を見落とすような大ポカである。このため、結局、本作の結末のルールブレイクは、上で示した二つめのパターン、代償パターンに近いものとなり、理屈としては綺麗なのだが、いささかカタルシスに欠けたものになってしまったのである。

 付け加えておけば、本稿冒頭でも指摘したが、暁美ほむらも主人公であるように見えてしまうのは、彼女のエピソードが鹿目まどかの物語から浮いてしまっている、ということから生じている錯覚である。つまりは、物語の欠陥を示すものであることに注意しなければならない。

おわりに

 このように、『魔法少女まどかマギカ』は、主人公たる鹿目まどかについて、視聴者が自然に期待するような物語を提示していない。さりとて、それに代わるような物語を用意しているわけでもない。この点が、私の考える最大の問題点である。他にもさまざまな細かい問題点を指摘することはできるが、作品の価値に深刻な影響を与えるものではないので、止めておこう。あとは、ほとんど申し分がないと言っていい。素晴らしい出来栄えで、これを佳作や良作と呼ぶのは贅沢の罰が当たる。まあ、名作認定してよいのではないだろうか。

 最後に、作品の簡単な感想を述べておく。グズグズのヒーローオタである私としては、やはり正義のヒーローは大人がやるものだ、という思いを強くした。中学生の小娘どもは、大人に守られてキャイキャイと日常系をやっていればいいのである。戦うのはオジサンやオバサンでいいのだ。『シン・シティ』のブルース・ウィリスでいいのだ。この系統の話は、よほどよく練られたものでないかぎり、『魔法少女まどかマギカ』だけでしばらくはもうお腹一杯である。

追記

 加筆にかんして、しろねこま氏、あい氏、よーかん氏のコメントを参考にさせていただいた。ありがとうございました。それにしても長くなった。どれだけ好きなのだ、と自分でも呆れる。

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