その愚かさはぼくらの愚かさ

  私の考えでは、以下の話題は、いわゆるオタク的な営みと本質的なかかわりをもつものではない。そのため、本来はこのサイトでは扱いたくないのであるが、騒ぎがそれなりに大きいせいで、なにも言わないのも変なように思えてきてしまった。仕方がないので少しだけ。まあ、ありきたりの話なのであるが。

 最近、サブカルチャーにおける表現について公権力が不当な規制を加えることを許してしまうような条例が某大都市で通った。条例の内容が酷いものであることは私も認める。また、その都市の首長や議員たちの見識がきわめて愚かなものであることも私は認める。このあたりの話は、すでに他の人々がいろいろと発言しているので、それに付け加えることは私にはない。

 私がここで問題にしたいのは、いわゆる規制反対派の人々の多くが抱いている、どうして世間一般の人々はこんなに酷い条例を容認してしまうのか、連中はきわめて愚かで許しがたい、という怒りである。このような怒りから、「悪意に満ちた愚かな規制派ども」にたいする罵倒を繰り広げてしまう規制反対派は少なくない。かつてゲーム脳云々を唱える似非学者がもてはやされたときも、類似の罵倒の連鎖が生じたように記憶している。しかし、私は、このような抗議表明は、間違っているばかりか有害でさえある、と考えている。

 私の論点は単純なものである。規制に反対する我々を苛立たせる世間の人々の愚かさは、実は我々自身ももっている愚かさである。これを自覚することなしに、この種の問題にたいする適切な対処は不可能である。

 ちょっと考えてみればわかることであるが、現代日本社会において、公権力やら業界の自主規制やら世論の圧力やらによって規制されている自由は数限りなくある。我々は銃を所持することができないし、大麻を吸うこともできない。カルトと見なされた宗教の活動もかなりの制限をうける。差別用語とされている言葉を使うと問題視される。また、近年では、喫煙が徹底的な社会的な排除の対象とされている。

 さて、これらの自由の制限についても、反対を唱える人々が一定数存在する。アメリカ合衆国には銃の所持は譲れない権利なのだ、と考える人が少なくない。大麻を解禁せよ、と叫ぶ人は日本にさえいる。たとえ反社会的とみなされるような宗教であっても、その活動に過剰な制限を加えることは信教の自由の侵害なのではないか、と考える人もいる。差別用語を指定して、その使用を逐一問題視するのは言葉狩りである、と言う人もいる。昨今の社会全体をあげての喫煙バッシングは権利侵害の域にまで達している、と主張する人もいる。そして、このような規制反対派のほとんどが、問題となっている個々の自由は下らないものに思えるが、ここで安易な規制を許してしまうと、蟻の穴から堤防が決壊するように自由の根幹が掘り崩されてしまうのだ、と強調している。

 こういった規制反対派の主張が正しいのか誤っているのかは、私にはよくわからないし、ここではどうでもよい。私が指摘したいのは、こういった少数の規制反対派の主張を、我々はこれまでたいして真面目に受け取ってきていない、という事実である。

 我々は、「なんとなく社会が安全になりそうだし」「なんとなく生活が快適になりそうだし」「規制される自由にあまり興味もないし」「そういうものを好む連中はキモイし」「規制の再考を提案したりすると、連中の仲間だと思われてしまうかもしれない、それは避けたいし」、そして「よく考えるのも面倒臭いし」というような理由で、このような規制反対論を真面目に検討することをしていないのである。たまに理解を示したようなふりをすることもあるが、それは世間の大勢を占める規制容認派に安易に与するのがなんだか気に食わないので、ちょっと批判的なポーズをとってみただけ、ということがほとんどだったりする。また、真面目に検討しているようなふりをして、実際は、あらかじめ自分の気に入るような結論の情報だけを選りわけて受容しているだけ、ということも多い。

 つまるところ、我々はみな、自分の利害に直接的な関係がないところでは、自由の制限がどこまで許されるのか、などという面倒な問題を真面目に考えようとはしないし、ましてや規制に反対して行動しようなどとはまず思わないのである。

 今回のサブカルチャーにおける表現規制についても、まったく事情は同じである。漫画に興味がないからといって、この規制問題について熟慮をせずに済ましている人々は、たしかに愚かである。しかし、その愚かさは、我々がこれまで他の場面で垂れ流してきた愚かさとまったく同じ愚かさである。

 時間や金や労力は有限である。あらゆる政治的な論題にいちいち付き合っていたら、アニメを見たり漫画を読んだりする余裕がなくなってしまう。だから、たとえば私は、武器や大麻や宗教や差別用語や喫煙の規制問題について、真面目に考えるのを避けている。世間一般の人々もまた、育児やら韓流ドラマやらゴルフやらに忙しいので、漫画の規制の問題などにいちいち関わっていたくないのである。ここにはたいして違いはない。たしかに、今回の規制の問題にかんしては、我々は熟慮のうえで正しい判断を下しえたかもしれない。(困ったことに、脊髄反射的な規制反対派も多かったが。)しかし、我々が問題を熟慮したのは、自分の利害に明確かつ直接的な関係があったからにすぎない。別の規制にかんするマイノリティの抗議の声については無視を決め込んでいたにもかかわらず、自分の利害に関わる問題にかんしてだけ、自分と同様の真剣さを広く求めるのは、虫がよすぎるというものである。

 たんに勝った負けたと騒ぐだけではなく、表現規制の問題に本気で取り組みたいと考えるのであれば、規制を容認する世間一般の人々の愚かさを我々も確かに共有している、というところから出発すべきである。「悪意に満ちた愚かな規制派ども」を、自分とは異質で無縁な存在として想定して、これを攻撃する、という営みは、根本的に間違っているばかりか、問題の本質を見失わせる恐れがあり、有害ですらあるのだ。

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