勝負事のドラマにおける偶然性と必然性

勝負事のドラマの構造

 虚構の娯楽作品において、スポーツやゲームなどの勝負事が題材にされることがよくある。ここで着目したいのは、勝負事のドラマがまさにドラマとして成立するためには、偶然性と必然性という二つの要素が必要になってくる、ということである。

 まず、勝負事のドラマにおいては、強い者ではなく、勝つべき者が勝たねばならない、ということを確認しておこう。簡単なことだ。物語として面白いほうが勝たねばならない、というだけのことだ。では、このことはどのように成立するのだろうか。

 第一に導かれるのは、その勝負事に偶然性が組み込まれていなければならない、ということである。

 強い者ではなく、勝つべき者が勝たねばならない、ということは、弱い者を勝たせなければならない場合がある、ということを意味する。しかし、これが難しい。強い者とは勝つはずの者のことであり、弱い者とは負けるはずの者のことだからだ。ここで効いてくるのが、勝負事における偶然性である。勝負事に運を絡ませて、勝つべき者が運を引き寄せて勝つ、という展開をつくるのである。極端に言えば、主人公たちの成功確率0.01%の大逆転の大技が決まる、というようなものだ。ヒーローは奇跡を起こして劣勢を跳ね返すのである。

 第二に導かれるのは、その勝負事の展開を必然性をもって物語ることができなければならない、ということである。

 たんに弱い者が強い者に偶然勝ちました、というだけでは、ドラマとして面白くもなんともない。友情だとか努力だとか愛だとかいった事情があったからこそ、弱い者は勝てたのだ、という、勝負事の外部の事情を織り込んだしかたで物語を語ることができなければ、ドラマにならないのである。このドラマが成立したときに、ある意味で、弱い者の勝利は必然的なものになる。その勝負事の枠内だけでなく、もっと広い文脈で見てみれば、勝つべき者が勝った、ということになるわけだ。

 勝負事そのものにおける偶然性を、より広い文脈をもつ物語でもって必然的にすること、ここに勝負事のドラマは成立するのである。

スポーツものドラマについて

 こう考えてみると、勝負事のドラマの題材として、スポーツが非常に適していることがよくわかるだろう。スポーツには、必ず偶然の要素が入る。実力差があったとしても、なにかの具合で弱者が強者に勝ってしまうことがしばしば起きる。そして、どうして番狂わせが起きたのか、実際のところ説明がつかない場合が多いのだ。当然のことで、それはまさに偶然そうなっただけなのだから、説明のしようもないのである。

 そこで、その番狂わせを無理矢理必然性のあったものとして物語るドラマが導入されることになる。強者は驕っていたが、弱者は懸命に特訓していたのだ、云々、といったように。これは、虚構の娯楽作品だけでなく、メディアによるスポーツ報道においてさえ見られる現象である。「亡き父親に捧げる逆転勝利」みたいな見出しをスポーツメディアは好む。別に親が死んだことと勝負事の展開とになんら因果関係がなくても、お涙頂戴ドラマとして必然的な展開になっていればそれでいい、というわけだ。

麻雀と将棋における特殊事情

 さて、こう考えたときに興味深いのが、ゲーム、それも、麻雀と将棋である。これらを題材に勝負事のドラマを展開することを試みた虚構の娯楽作品がいくつかあるが、実は、この二つのゲームには特別な事情があるのだ。

 まずは麻雀について。麻雀というゲームは、ゲームそのもののなかに運の要素、すなわち、偶然性を明示的に内包している。ここに一つの課題が生じる。麻雀勝負ものは、麻雀に内在するゲームとしての偶然性と、物語論的に要請される偶然性とを、きちんと区別して構成される必要があるのだ。そうしないと、勝つべき者が勝ったのではなく、運が良いほうが勝っただけだ、と見えてしまう。そうなってしまうと、勝敗を必然性をもって物語って、ドラマにすることが難しくなってしまうだろう。そのため、虚構の麻雀ものは、スポーツ的な処理がしやすいイカサマや超能力を組み込んでいく方向に進むことが多いのだと思われる。

 たとえば、小林立『咲-Saki-』における超能力の導入などは、いささか不用意で、麻雀というゲームに必要な偶然性まで消してしまっているふしがある。二つの偶然性を区別する、という課題をクリアしそこねてしまっているのである。これは、この作品の弱点の一つであろう。

 他方、将棋というゲームは、その勝敗が一手一手の積み重ねで合理的に決定されるものである。つまり、原理的には偶然性の要素がないものだ。なぜこちらが勝ってそちらが負けたのか、説明ができてしまうのである。ここには、別の課題が生じる。将棋勝負ものは、合理性つまりは必然性に支配されるはずのゲーム展開に、物語論的に要請される偶然性をどうにかして導入しなければならない。そうしないと、誰が勝とうが、勝ったということはその人のほうが正しい選択をするだけの実力があったということでしょ、と思えてしまう。これもまたドラマになりにくいのである。そのため、虚構の将棋ものは、勝負そのものや一手一手に過剰な意味を盛り込んでいき、ゲームとしての最善手を合理的に追求する、という要素を極力薄めようと試みていくことになるのだろう。

 ここから、あらためて現実のプロの将棋を考えてみると、なかなかに面白い。実際の将棋の対局の進み具合には、対局者たちのさまざまな事情が反映されるはずなので、本当はそこになんらかのドラマがあってもおかしくない。ところが、将棋のプロは、対局が終わったあとに、ただちに感想戦に入る。そこでは、不治の病で衰弱していたための悪手であろうが、ポカミスの悪手であろうが、悪手は悪手で同じ扱いをうける。ドラマがあったはずの個々の指し手を、勝敗のための合理性という観点から徹底的に検討しなおしていくわけだ。それもあって、将棋、とくにプロ将棋ににドラマ性を入れ込むのは、かなり上手くやらないと難しい、と思われる。たとえば、柴田ヨクサル『ハチワンダイバー』などは、舞台をプロ将棋にしていないところが肝なのだろう。

 私は麻雀ものや将棋ものがそれほど好みではないので、確たることは言えないのであるが、麻雀勝負あるいは将棋勝負を題材にした虚構の娯楽作品で成功したものは、ほぼすべてがこのあたりの事情をきちんと押さえているのではないだろうか。

 このテキストはウェブログの文章を加筆し再構成したものである。コメントくださった方、ありがとうございました。

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