『アイアンキング』と漢の友情

 『アイアンキング』の世間的な評価は低すぎる。それは、『アイアンキング』が少し難しいからだ。子供では判らないのだ。そのため、子供時代リアルタイムで視聴していた世代の感想があまり当てにならない。この作品は、成長したオタクの目で丁寧に見直さねばならない。

 問題を提起しよう。以下のようなものだ。
 静弦太郎は非情な男である。もちろん、敵対する不知火一族や独立原野党も劣らず非情な集団だ。(さしあたりタイタニアン編は考慮の範囲から外す。)しかし、両者とも非情であるにもかかわらず、どうして静弦太郎がヒーローたりうるのだろうか。弦の字がヒーローであることを支えている根拠は何なのだろうか。
 静弦太郎には人々の生活を守る、という大義がある。しかし、大義ならば、不知火一族も独立原野党ももっている。これをしっかりと描いている点を見落としてはならない。『アイアンキング』における戦いは、大義と大義の争いなのだ。こうなると、どちらに真の正義があるのか、と問うてみても、決着はつかない。既存の秩序の守護者だからといって、即、ヒーローを名乗れるほど、この作品は単純ではない。
 では、採る手段はどうか。テロリストたる不知火一族や独立原野党は、目的のためには手段を選ばない。冷酷非道だ。しかしながら、目的のためには手段を選ばないのは、静弦太郎も同じである。静弦太郎は、あくまで一匹の権力の走狗として戦う。それが彼のプライドなのだ。この点でも、両者に違いはない。

 しかし、それにもかかわらず、静弦太郎だけが、僕らにとってヒーローである。それを支えているのは何か。
 ただ一つ。霧島五郎との友情である。
 弦太郎は五郎と共に旅を行く。そのなかで見せる弦の字の笑顔のなんと無垢なことよ。このときの静弦太郎は非情な男ではない。誰かの小さな幸せに、ときに泣き、笑い、怒る、一人の心優しき青年なのだ。
 静弦太郎は、二つの貌をもつ。非情なエージェントであり、無垢な笑顔の青年である。しかし、この二つは、ときに両立不可能になる。大義のためには小さな幸せを殺さねばならない。小さな幸せを選んでしまえば、大義は死ぬ。そして、『アイアンキング』における戦いとは、まさにそのような残酷な選択を迫られる場面の連続なのである。
 先に述べたように、このような場面において、静弦太郎もテロリストたちも、断固として大義を選び、小さな幸せを切り捨てる。しかしながら、そうであるにもかかわらず、ここに決定的な差異が現れる。テロリストがつねに大義を意気揚々と何の疑問ももたず掲げるのに対して、弦太郎は大義を掲げるたびに苦悩するのだ。傷つくのだ。自らの二つの貌に引き裂かれ、血を吐きながらも、一匹の猟犬として、非情な大義を貫くのだ。
 ここが、そして、ここだけが静弦太郎とテロリストを分ける一線である。この苦悩があるからこそ、静弦太郎はヒーローなのである。

 静弦太郎は、大義と小さな幸せとの間で苦悩する。だからこそヒーローだ。では改めて問おう。なぜ我々はその苦悩を見て取ることができるのか。
 ここで先ほどの答えを繰り返そう。霧島五郎との友情によって、だ。ただ一人、弦の字が心を許し、その笑顔を向ける五郎なくして、我々は弦太郎の非情な仮面のうちに隠された心に気づくことはできない。もし五郎がいなければ、我々は弦太郎とテロリストたちの非情な殺し合いを、外側からただ呆然と眺めていることしかできなくなっただろう。
 そして、五郎なしに戦いを続けたならば、静弦太郎のうちの無垢な笑顔はそのまま死んでいっただろう。もしかしたら、それはそれで幸せなことだったのかもしれない。少なくとも、大義を貫くことが生む矛盾の苦悩からは解放されるのだから。しかし、これだけは言える。それはヒーローの生き方ではない。

 ここで我々は気づく。他ならぬ霧島五郎もまた、二つの貌をもつということに。陽気な青年としての貌、そして、表情をもたぬ戦闘機械アイアンキングとしての貌である。そう、いつも陽気な五郎の陰にも、弦太郎と同じような苦悩があるはずなのだ。だからこそ、五郎は弦太郎を理解できたのだろう。そして、その信頼を勝ちえたのだろう。弦太郎は非情の仮面に苦悩を隠す。五郎は道化の仮面に苦悩を隠す。二人とも、隠された苦悩のゆえにヒーローなのだ。

 静弦太郎と霧島五郎はいつ果てるともない修羅の道を行く。彼らがそれでもヒーローである、ということを、一筋の細い糸、漢の友情という糸が支えている。この切なさが、『アイアンキング』という作品を不朽の名作たらしめているのである。

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