『侍戦隊シンケンジャー』の感想

 『侍戦隊シンケンジャー』が本当に面白かったので、以下、とりとめもなく書き連ねていた感想をまとめておく。

 年齢がバレるが私はスレスレで『秘密戦隊ゴレンジャー』にリアルタイムで間に合っている。記憶はまったくないが。それから約30年、ところどころの中断はあれど、東映戦隊をけっこう見てきた。でも、そんな私が『シンケンジャー』の終盤数話の展開には、声に出して「ヒィ、これはスゲエ!」って叫んでしまった。

 いろいろなところで私は「娯楽作品において、想定される視聴者の日常的感覚とは異なる価値観を軸に据えることは、多くの場合失敗を招く」と主張していたのだが、『シンケンジャー』にかんしては、ゴメンナサイ考えが甘かったようです、と完全に白旗を上げざるをえない。現代に生きる我々からすれば実感の湧きようもない「武士道」やら「忠義」やらという価値観も、アレンジ次第でこれほどまでに面白く、子どもにもわかるように展開させることができるのか。プロの技を私は舐めていたようだ。

 さらに言えば、この作品、「武士道」を描きつつ、その「武士道」の外部にいるメンバーとしてシンケンゴールドをキャラ立てする、という変化技まで決めていやがる。それにしても、シンケンゴールドは素晴らしい。海老と烏賊を従えた寿司屋が喋る提灯を掲げつつ秋刀魚を振り回して悪を倒す、なんて、要素だけを並べればどう考えても視聴者を馬鹿にしているとしか思えないだろう。しかし、実際に形になったシンケンゴールドのかっこよさといったら!かっこよさげな要素を揃えてかっこいいヒーローを造形する、などということは、素人の妄想でもできることだ。中学生ごろにノートに書く「ボクの考えたオリジナルヒーロー」ってのはそんな感じになりがちだ。しかし、それでは客から金は貰えない。ありえない要素から痺れるようなかっこよさをつくってしまう。これこそプロの技。ここでもまた唸るほかなかった。

 ついでに記しておけば、メインキャラクター、全員とても可愛らしいのだが、そのうちでも私はシンケンゴールド梅盛源太がいちばんお気に入りだったかな。友人の息子の三歳児は烈火大斬刀を振り回しながら「ボクは、志葉丈瑠!」とか叫んでいたので、彼はシンケンレッド派だったようだ。

 メインキャラだけでなく、全般にキャラの立て方、使い方が上手かったな。思い返してみれば、あれだけの存在感で物語終盤を引っ張った「真の志葉家」、実は志葉薫と丹波歳三の二人しかキャラが登場していないのだよね。それなのに、語り口の上手さ、キャラの印象の強さ、ノリのいい演技で、物語の説得力を落とさずに乗り切ってしまった。やるなあ。

 いまひとつ、と思ったのは、まずロボットであろうか。最初の形態、シンケンオーは素晴らしくかっこよかった。しかし、究極形態、サムライハオーがとにかく酷い。『シンケンジャー』だけではなく、全般的に、このごろの戦隊ロボの強化合体はどう考えてもおかしい。ハオー、格好良いとか悪いとか以前に、一つのロボットとして成立していないではないか。前作『炎神戦隊ゴーオンジャー』エンジンオーG12もそうだった。どう見てもゴミ団子みたいな雑多な集積体で、正直、観ていて哀しくなってしまった。これは私が年をとって感覚がおかしくなったせいではないだろう。このあたり、本当にどうにかしてほしいものである。ロボットアニメも少なくなった今、子どもはロボットの格好良さをまず東映戦隊から学ぶのだ。もうちょっと頑張ってほしい。オモチャを売るために新メカを次々出していくのは仕方ないにしても、完成したデザインのベースロボットに強化パーツつけまくるのではなく、究極形態をまずデザインして、そこから逆算してほしい。そういえば、『シンケンジャー』の最終決戦で、血祭ドウコクに最後の一撃を叩きこんだのは素のシンケンオーであった。あれはかっこよかった。素晴らしく燃えた。あの演出は、制作側もサムライハオーのデザインの問題をわかっていたからこそではないか、と私は考えている。だからこそ、もうちょっと頑張ってほしかったのである。

 もうひとつ文句をつけるとすれば、敵方の造形であろうか。外道衆という敵方の位置づけに私は若干の不満をもった。シンケンジャー側が武士道モノをアレンジしてドラマをつくっていったわけだから、外道衆の側にもそのネガとしての武士道ドラマが欲しかったのである。ところが、外道衆は、悪の武士道集団ではなかった。それぞれがそれぞれなりの関係で緩く結ばれた、ヤクザか野盗みたいな集団でしかなかったのだ。個々のキャラクターをとってみても、シンケンジャー側にたいするネガキャラとして機能していたのは腑破十臓だけだった。(白石茉子に不倫経験でもあったら薄皮太夫姐さんともっと深く絡めたと思うのだが、まあ、それは無理か。)私の考えでは、外道衆の首領はドウコクみたいな無双系武将キャラではなく、極悪な「殿キャラ」であるべきだった。『十三人の刺客』みたいな感じで無能であってさえよかった。そして、外道衆の幹部連中も、首領にそれぞれ別々の個人的な思惑で付き合っている連中ではなく、武士道をタテに極悪な殿に冷酷無残に使い潰されていく家臣キャラであるべきだった。そうしていれば、シンケン側のラスト近くの武士道ドラマが対比によってより浮き上がったように思うのだ。外道衆、もちろん個々のキャラは魅力的だったと思うのだが、組織としての立て方のポイントを外してしまっていたのではないだろうか。

 文句といってもこのくらいしかない。私の人生におけるヤル気の浮き沈みは、そのときどのような特撮がやっているか、にかなりの度合い支配されている。『侍戦隊シンケンジャー』が放映されていた一年間は本当に幸せだったよ。(さらにそこに『仮面ライダーW』が被っていた約半年間は天国だった。)やはり特撮だ。特撮なんだよ。

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