そこにないのはなにでなぜないのか

 昔読んだ短編の推理小説に、物書きが住んでいたとされる部屋の家財道具を延々と並べ立てていったうえで、「おかしい、屑篭がない!物書きの部屋に屑篭がないはずがない、奴はスパイだ!」とオチがつくものがあった。これが推理小説のネタとしてどうか、というのは脇に置こう。この場合の屑篭のように、あるはずのものがない、とはどういうことか、少し考えてみたい。

 そもそも、娯楽作品というものは、都合の悪い要素を「あえて無視して描かないこと」において成立するものである。たとえばヒーローにブッ殺される三下の悪党にも親や子どもがいることなどは、基本的に無視される。当然のことである。現実とは違って都合よく事が運ぶからこその娯楽作品である。都合の悪いところまで現実を模写して描いたら自然主義文学になってしまう。それはそれでいいのだが、別物だ。

 というわけで、ここで、いくつかの作品を取上げて、それらがなにを「あえて無視して描かないこと」にしているのか、そして、その無視の仕方にどのような工夫を設けているのか、また、その工夫がどのように成功しあるいは失敗しているのか、このあたりのことを検討してみたい。まあ、実質的には切り口が近い感想文をいくつか並べただけなのであるが。

 小林尽『夏のあらし!』の戦争の描き方は興味深い。娯楽作品で戦争を、それも過去に実際にあった太平洋戦争を描く、というのは、かなりハードルが高い。作中に描くべき要素と描くべきでない要素を上手く選り分けなければならない。そして、その選り分けを読者に気づかせてはならない。しかし、よほどの無教養者でないかぎり、現代人の我々は、この戦争を語るときに触れるべき諸々のポイントを勉強して知っているわけだ。それが扱われていない、ということに読者はすぐ気づいてしまう。ではどうするか。
 こう考えると、『夏のあらし!』で、現代の出来事の描写がきわめて限定された舞台の上だけで行われている、ということの意味に思い至る。この作品、時間的には夏休みだけ、空間的にはほぼ喫茶店の内だけといった、ごく狭い範囲で現代の出来事を描いている。登場する人物も限定されている。この現代における舞台の狭さは、過去に跳んだときの主人公たちの戦争への関わりがきわめて限定されたものであることに対応している。過去で経験する戦争が一面で切り取ったものであることに釣り合わせて、現代の舞台をぐっと狭くしているのだ。現代の舞台がもっと広かったとしたら、戦争にかんして別の関わり方をしていた可能性のあるキャラクターが登場してしまう。そうなれば、読者はどこかで太平洋戦争にたいする現代人の俯瞰的な視点を思い出してしまうであろう。そうならないためにも、現代のシーンは喫茶店方舟内を中心に構成されねばならない。こうすることで、『夏のあらし!』は「一般に太平洋戦争にかんしてはこういうことも重要だけれども、なぜ扱われていないのか」という問いを封じえているのである。
 このあたりの構成は非常に巧みであると思う。

 次いで、『マクロスF』。この作品、全体の出来はいまひとつなのだが、「あえて無視して描かないこと」っぷりがものすごく大胆で気持ちがいい。『マクロスF』に不在のものを、二点指摘しておこう。
 ひとつは、シェリル・ノームとランカ・リー以外の歌い手である。『マクロスF』の面白いところは、ヒロインズのもつ歌の力が、歌唱力とか楽曲のよさとかとはまったく無関係に、科学的な説明の対象になっていることだ。つまり、冷静に考えれば、音痴な不美人が駄曲をボエーと唸っていようが、ヴァジュラには効くはずなのだ。ところが、この作品、力技でここを強引に誤魔化している。もちろん、その力技とは、シェリルとランカ以外には基本的に歌を歌う人がいない、という構図である。そのため、視聴者は、アタマではそうではない、とわかっていても、どうしても「いい歌をいい感じに歌っているから、物語が動くんだ」と思ってしまうのである。「歌は上手いがヴァジュラにはどうでもない歌い手」や「歌は下手だがヴァジュラには効く歌い手」を徹底的に排除することで、この作品はSF的な設定と物語演出上の盛り上げを重ねたわけだ。
 さて、これをするためには、二人しか歌手のいない世界を音楽的に乏しいものと感じさせない工夫が必要である。言うまでもなく、ここで活躍したのが菅野よう子に他ならない。作品世界の描かれていないところにも別の音楽があるはずだ、ということに視聴者が気づかないように、とにかく多種多様な濃い曲を連発して音楽的にお腹一杯状態にさせておく、という仕事を菅野よう子はやっていたわけだ。
 どうでもいいことだが、たまに『マクロスF』の音楽がたとえば山本正之だったらどうだろう、と考える。別の意味でお腹一杯になりそうだ。
 さて、もうひとつ『マクロスF』が徹底的に無視したのが、早乙女アルト以外の「男の子」の可能性である。ヒロインズにとって恋愛対象となるのは、なぜかこの人しかいないことになっている。これまた思い切った割り切りで、彼女たちにとって、他の男の子は最初から最後までまったく眼中に入ってこない。徹底的なトライアングラー。これまた面白い。
 ただ、この点にかんしてはこの作品、微妙かもしれない。この主人公、最後までまったく主人公らしい働きをしなかった。脇キャラクターたちは奮闘して、行動して謎に迫るだとか、なんらかの重要な決断をしたりだとかといったことをやっている。しかし、早乙女アルト、一兵卒として命じられるがままに目の前に出てくる虫を打ち落とすことしかしなかった。物語をまったく動かしてしていないのである。そのため、「世の中、もっといい男もいるのではないか」という、この作品が「あえて無視して描かなかったこと」に視聴者の多くが気づいてしまったように思う。これは失敗であろう。
 まあ、アルトくん、顔はいいからな。結局、顔か。顔なんだな。

 最後に天野こずえ『ARIA』に触れておこう。
 一般的に言って、幸福に満ちた素敵な世界の条件として、金に困っていない、というものがあるだろう。金は幸福の十分条件ではないが、必要条件ではある。よく考えてみれば、素敵世界の住人はたいてい裕福そうだ。しかし、だ。馬鹿馬鹿しいくらいに当然の話であるが、金に困っていない、ということをそのものとして描いてしまったら、受け手は引いてしまうだろう。つまり、あるタイプの素敵な世界は、金の問題を「あえて無視して描かないこと」において成立するのである。かつてどこかで『カードキャプターさくら』世界にはブルジョワしかいない、と指摘したテキストを読んだ覚えがあるが、たとえば『CCさくら』もまた、金持ちさんしか登場しないことになんらの説明も与えてはいない。それは触れるべきではない話題なのであり、世界の素敵さに酔いしれて、読者や視聴者が気づかなければそれでいいのだ。
 さて、『ARIA』である。この世界にも基本的に「金に困る」という事態はなさそうである。しかし、ここでひとつ問題が生じる。この作品、労働がテーマになっているので、読者はどうしても描かれていない金の動きを考えてしまいがちなのである。ここが『ARIA』の面白いところだ。当然あってしかるべき金の話がすっぽり抜けていることが、つまり、金の話を「あえて無視して描いていないこと」が読者に丸見えになる構造になっているわけだ。このことは、読者のありように対応して、異なる効果を生むであろう。好意的な読者にとっては、この事態は、浮世離れしたフワフワした雰囲気を高める効果として肯定的に捉えられるだろう。『ARIA』の独特のフワフワ感の出所の一端はここにある、と私は考えている。逆に、意地の悪い読者は、素敵な世界の描かれざる裏側に、貧困をはじめとする金にまつわる諸問題を妄想していくだろう。どちらの受け取り方も間違いではない。自分で楽しいと思う読み方を選べばよい、というだけのことだ。

 そこにないのはなにでなぜないのか、という観点から、いくつかの作品を扱ってみた。いまひとつとりとめがないが、さしあたり、以上。このテキストにかんしても、掲示板やウェブログにおいて何人かの方々に寄せていただいたコメントがたいへん参考になった。どうもありがとうございました。

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