もっといっぱいぶっ殺せ

 かなり苦手であったライトノベルをそこそこ読むことができるようになった。それは、自分がラノベになにを求めるべきであり、なにを求めるべきでないか、がそれなりに定まってきたことによる。私は萌えと同じくらいに燃えが、それも、片っ端から人をさくさくとぶっ殺す燃えが大好きである。それ自体はいいのだが、かつての私は、ラノベにもこの種の燃えを無意識のうちに求めてしまっていたのである。これが間違いであった。

 娯楽作品は、その物語を貫く価値観を、なるべく対象読者の価値観と近づけておかねばならない。異質な価値観を理解し受容することは、読者に負担を強いるので、純文学や哲学の論文でならばいざしらず、娯楽作品においては異質な価値観の提示は望ましくないのである。さて、そうであるならば、中高生向け読み物としての性格の強いラノベは、ベースとなる価値観を、現代日本の学生の価値観から大きく外すのが難しい、ということになる。ここから、ラノベが基本的に人を殺すのが苦手であることが理解できる。

 現代日本でラノベを読んでいるような中高生は、わりと素朴に「人を殺すのは道徳的にたいへん悪いことだ」と思っている。さて、ラノベの舞台は、多くの場合、現代日本の学校を採用している。さらに、ラノベの主人公は、多くの場合、現代日本の学生という設定である。このとき、読者に倫理的な葛藤を引き起こさずに主人公に殺人を犯させるのは、かなり難しいであろう。これほどまでに道徳的に重大な出来事を起こしてしまった人間が、現代日本の学校に普通の学生として通うことができるのだろうか、という疑問に上手く答えねばならないのであるが、これが非常に面倒なのである。それならば、そもそも殺人をさせないほうが早い。それゆえ、ラノベは人を殺すのに不必要なまでに慎重なのではないか。

 このあたりの事情を私はわかっていなかった。そこで、ラノベにないものねだりをして、不満を覚えてしまっていた。それは間違いだった。片っ端から人をぶっ殺す燃えは、大人向けの娯楽作品に求めるべきものだったのだ。まだ心が純な中高生と異なり、汚れっちまっている大人は、片っ端から人がぶっ殺される世界、片っ端から人をぶっ殺す主人公を、とくに良心にストレスを感じることなく受容することができる。それは、舞台を学校に設定する必要がなく、また、主人公を学生にする必要がないからだ。たとえば、舞台が悪人に牛耳られた無法地帯であれば、また、主人公が殺しのプロの元軍人であれば、悪い奴らをいくら殺そうが、読者に倫理的な葛藤は生じないであろう。だってそういうものなんだからそうでしょ、で済むのである。以下で挙げるような、殺し殺され死に死なれ、の名作群は、その意味ですべてラノベ的ではないわけだ。

佐々木譲『ベルリン飛行指令』

 時は1940年、アシカ作戦が頓挫し手酷い打撃をうけたドイツ空軍は、極東の同盟国の最新鋭戦闘機の情報を入手する。行き詰る戦局を打開すべく、ヒトラー直々の要請で立てられた極秘の計画は、これだ。「零戦をベルリンに空輸せよ」。秘命を請けた日本海軍屈指のパイロット、安藤大尉、乾一空曹は、零戦を駆り、一路ベルリンを目指す。安藤啓一大尉、凄腕エースでありながら「わたしは軍人である前に飛行機乗りなのです」とか言っちゃうし、異国の星明りの下でトランペット吹いたりしちゃうし、ちょっとカッコよすぎるきらいがなきにしもあらず。ただ、多くの人間たちの意図が絡み合って計画が練り上げられ動き出していくさまが重厚な背景の役割をきっちりと果たしているので、かっこよすぎる主人公も鼻につかない仕上がりになっている。和製の冒険小説でこれだけスケールが大きくて隙がないものを私は他にほとんど知らない。
 (新潮文庫、1988年)

リー・チャイルド『キリング・フロアー』

 軍を退役し放浪の旅の途中であったリーチャーは、ジョージア州のとある田舎町で殺人の嫌疑をかけられ逮捕されてしまう。やがて事件に兄の死がからんでいることを知ったリーチャーは、町全体を牛耳る巨大な犯罪組織の陰謀に立ち向かうことを決意する。ハードボイルドというよりはヴァイオレンスヒーローアクションである。この主人公リーチャーの強さが半端ない。もと米軍の憲兵なのだが、「軍隊の犯罪者はすべて軍人である」「憲兵は軍隊の犯罪者を取り締まるので軍隊の犯罪者より強い」「ゆえに憲兵は軍人より強い」「しかるに、軍人はそもそも強い」「結論、憲兵はムチャクチャ強い」という論理で、無敵の戦闘能力を付与されちゃっている。そのうえ、物語途中で手に入れる拳銃はデザート・イーグル。アホすぎる。彼が悪者どもをバッタバッタと蹴殺撲殺斬殺射殺していくさまをニヤニヤしながら読むのはサイコーの娯楽である。このリーチャーが再登場し活躍する続編も何冊か翻訳されていて、どれも悪くない。
 (小林宏明訳、講談社文庫、上下巻、2000年)

ジェラルド・シーモア『一弾で倒せ!』

 ソヴィエト連邦、ヤルタで突如発生した乱射テロ。外交官ホルト青年は、眼前で上司と婚約者を射殺される。犯人の顔を目撃したのは、ホルトのみ。報復を計画する英国情報部は、イスラエル軍の凄腕スナイパーとともにホルトをテロリストたちの巣窟、ベカー渓谷へと潜入させる。狙いはただ一人、「頬にからすの足跡のような傷のあるアラブ人」を暗殺せよ。というわけで、ヴェテラン兵士と青二才のコンビがぶつかり合いながら難局を乗り越えていく、という黄金中の黄金パターンが展開されることになる。「アラブのテロリストは野蛮で悪い奴ら」というテンプレートがときに鼻につくところはマイナスであるが、それを引いてもなお、素晴らしく出来がいい、と評価できる冒険小説である。老狙撃兵ノア・クレイン、脳内キャスティングをすると、どうしても条件反射でトム・ベレンジャーになってしまう。
 (東江一紀訳、新潮文庫、1989年)

ディヴィッド・L・ロビンズ『鼠たちの戦争』

 独ソ両軍が激突し地獄の惨状を見せるスターリングラードで、天才狙撃手ザイツェフとそのチームはドイツ軍をひとりまたひとりと葬りさっていく。しかし、復讐に燃えるドイツ軍は、ザイツェフを狩るため、ナチ親衛隊きっての狙撃の名手、トルヴァルト大佐を本国より呼び寄せた。ザイツェフとトルヴァルト、二人の殺し屋の対決の時が迫る。狙撃手が主役の戦争映画、「スターリングラード」(2001年)が面白い、という話をしていたら、狙撃手ザイツェフものなら映画よりもこっちですよ、と後輩に薦められた。読んでみたら、ハードでクールな戦争ものとして、なるほどこれは面白い。マシンガンで薙ぎ倒したり爆弾でフッ飛ばしたり、といった派手なアクションは小説よりも映画のほうが得意なのだろうが、動きのない知能戦や心理戦がメインになる狙撃については逆になるのだろうか、狙撃戦描写のスリリングさはこちらが上だ。そう思って振り返ってみれば、映画はそのへんの描きにくさを埋めるためにいささか安易にメロドラマに走った感じがする。ところで、戦争ものにアメリカさんがからむと、どこかで能天気な自分中心の正義観が出てきてウンザリさせられたりするのだが、その点、独ソ戦はいい。ヒトラーとスターリン、どっちもどっちで酷いということを、皆が共有前提としているからね。
 (村上和久訳、新潮文庫、上下巻、2001年)

デズモンド・バグリィ『高い砦』

 冒険小説の古典中の古典。主人公のパイロットが操縦する小型飛行機がハイジャックされ、アンデス山中に墜落する。狙いは乗客の一人である、南米某国の元大統領。脱出を図る乗客たちに、近代兵器で武装した軍事政権の大部隊が立ちふさがる。人間の悪意と自然の猛威の前にほぼ丸腰で投げ出された一行は、絶体絶命の窮地に陥るわけだ。ここからお約束の「人生に挫折しかかった男が難局にあって再び立ち上がる話」や「弱小集団が強大な敵に知恵と工夫と結束力で立ち向かっていく話」が展開していくことになる。『高い砦』といえばコレ、の有名な話なのでちょっとネタバレすると、乗客に大学の先生が二人いて、中世史の先生が設計図を引き、物理学の先生がトンカンやって、ありあわせの材料で石弓をつくりあげ、平凡なおばちゃんが意外な才能を発揮して狙撃手として大活躍してしまったりする。このあたりの展開、痛快きわまりない。
 (矢野徹訳、早川文庫、1980年)

 もちろんラノベにも多種多様な作品がある。きちんとぶっ殺せている佳作良作も少なくない。しかし、一般的には、こういった種類の「いっぱいぶっ殺す」燃えは、ラノベに求めてはそもそもいけなかったのである。見つかったら嬉しい、くらいの期待にとどめておくべきだったのだ。

 では、今の私はラノベになにを求めているのか。可愛いキャラクターに萌えること、これだけである。不愉快なまでのヘタレがいない、という最低条件さえクリアしていれば、殺る燃えにかんしてはそれほど期待しないことにした。さしあたり、これで上手くやっていけるようなので、しばらく様子を見てみたい。

ページ上部へ