文化としての妄想

はじめに

 ここのところ気になっていたことをまとめておく。
 日常的な言葉遣いでは「文化的」ということが「高級である」とか「高価値をもつ」とかを意味したりもするのであるが、本稿での「文化」概念にはそのような含意はない。すなわち、本稿はオタク的営みであるところの妄想が高級であるとか高い価値をもつとかいったタワゴトを主張するものではない。
 本稿での「文化」概念の眼目は「共同性」と「歴史性」にある。ある営みは、複数の人間に共有され、時間のうちで反復されてはじめて文化たりうる。一人だけでは、一瞬だけでは文化は形成しえない。そして、オタクのなす妄想もまた、個々人が孤独に行う主観的な営為ではありえない。カッコイイ言葉を使えば、オタクの妄想は間主観的あるいは共同主観的かつ歴史的な営為であり、そしてまた、文化的営為なのである。

従来の私の見解との差異

 本稿の主張は、初期の私の主張とは少々異なる点を含む。まずはそのあたりから始めたい。
 基本的に私はオタクの本質を妄想に置くわけだが、ここは動かない。問題は、どのような妄想をあるべきものとして考えるのか、ということにある。
 この点にかんして、初期の私の思想は、「妄想にかんしてオタクの側の自発性を重視する」という立場であった。どんな作品であれ萌えるないしは燃えるポイントを見つけたら、そこで自由に妄想を繰り広げられるようなオタク、このようなオタクをあるべきものとして私は提示していたのである。しかし、ここには間違い…とまではいかないが、誤解を招きやすい点があった。妄想における自発性ないしはオリジナリティを強調するあまり、共同性や歴史性の契機を過小評価していたのである。
 実際には、事態は以下のようになっていると思われる。オタクが妄想するためには、オタク文化を教養として身につけ、オタク共同体の一員として自己形成する必要がある。自発的な妄想は、このような先行する共同の文化的背景を前提としてのみなされうる。オリジナリティのある妄想が可能になるのは、オタクのお約束と伝統をわかっている場合だけだ、ということだ。

妄想の共同性と歴史性その1

 妄想の文化性は単純な事態ではなく、いくつかの要素が絡み合っていると思われる。重要と思われる点を二つ挙げておく。
 第一に、人はどのようにオタクになるのか、という点を確認したい。
 なにかの作品に触れ、燃えあがったり萌えあがったりして、妄想するに至る。このこと自体は、オタク文化とは独立に行なうことができるかもしれない。しかし、ここで考えたいのは、妄想する存在すべてがオタクであると言えるのか、ということである。やはり、妄想ならなんでもいい、というわけではなく、オタク的な妄想をする妄想者のみをオタクと呼ぶべきではないか。たとえば、アン・シャーリーは超絶的な妄想者であるが、オタクではないだろう。それは、彼女の妄想がオタク的ではないからだ。
 では、「オタク的な妄想」の「オタク的」という特徴づけの基準はどこにあるのか。ここで、先行するオタク共同体の存在が重要になってくる。「これがオタク的だ」などという明確な定義がまえもって存在するわけはない。「オタク的」という特徴づけの基準は、先行するオタクたちがこれまでなしてきた妄想の蓄積が織りなす歴史的文脈、共同体的文脈に連なっているかどうか、ここに存するのである。古典的作品や流行の作品を押さえるとか、さまざまな属性概念やカップリング概念の使用に習熟するとか、テンプレート的な妄想シチュエーションを知っておくとか、さまざまなことがらを身につけたうえではじめて、オタクはオタク的な妄想をしたり、他のオタクの妄想を理解したりできるようになるのだ。名の知れた評論家がオタクからすると頓珍漢なアニメ評をしてしまったり、第一世代のオタクと呼ばれる連中が現在のオタクたちの萌え語りを理解できなかったり、といった現象は、このような文脈の共有の欠如にその原因を求めることができるのである。

妄想の共同性と歴史性その2

 第二に、人はどのようにオタク的に振るまうのか、という点を見てみたい。
 ここで考えたいのは、妄想の快楽がどこに存するのか、ということである。妄想はそのものとして楽しいものである。自分にしか理解できないような自慰的な妄想であっても、我々は十分に楽しむことができる。しかし、ここで指摘したいのは、オタクの妄想においては、これとは少し異なる種類の快楽が重要な機能を果たしている、ということである。すなわち、自分の妄想を他のオタクに笑ってもらう、という快楽である。
 リアルやネット、同人活動などで、自分の妄想を他者に向かって語る、という営みをオタクは行うことがある。このとき、あるオタクの妄想は他のオタクたちの批評に晒される。このとき、オタクの妄想は、他者に向けた一種の芸になっている。そして、その芸が賞賛されることは、先に指摘したものとは別種の快楽を与えるであろう。
 さて、他者に面白いと思ってもらえるような妄想をするために、文化の共有が必要になってくることは、もはや言うまでもない。他のオタクたちが一般に、どのような作品を評価し、どのようなシチュエーションに燃え、どのようなキャラやカップリングに萌え、どのような妄想を好んできたか、こういった文脈を押さえ、それを参照しつつ妄想していくことができなければ、芸としての妄想は成立しえない。この意味でも、妄想は文化的営為なのである。

芸としての妄想

 芸としての妄想、という論点について、さらに考えておきたい。
 オタクが友人たちと会話する場合やネットなどで語る場合を考えてみると、その語りには、多かれ少なかれ芸の要素が入っているのではないか。簡単に言えば、ウケを狙って妄想を語っている、ということである。たとえば、「誰々は俺の嫁」といった発言があったとして、それがいつでも当該キャラを嫁とする生々しい妄想に基づいているかどうかは怪しいだろう。たんに仲間やウェブログの訪問者を楽しませようとして、とりあえず好きなキャラについて「俺の嫁」と言ってみただけ、ということも多いのではないか。この場合の俺の嫁妄想は、まずもって他者を楽しませるための芸なのである。
 芸としてだけなされる妄想は、薄っぺらいものになりがちのように思われる。しかし、そうとは限らない。ウケを求めることで妄想が練りあげられていく、ということも十分にありうる。同人活動などは、このような他者の反応の意識なしには成立しえないであろう。また、芸としてウケる妄想を模索して練り上げるなかで、オタクは他のオタクとの豊かな交流を結ぶことができるだろう。そして、新しい萌えやら燃えやらに目覚めて成長することもあるだろう。芸としての妄想を追求することで、独りで悶々と紡ぐ妄想をより楽しめるようになるかもしれないのである。そして、さらに言えば、たとえいささか薄っぺらかろうとも、その場が盛り上がって面白ければ勝ち、というのも、正しいといえば正しいのだ。

妄想芸のネタとしての作品

 ところで、芸としての妄想という論点は、オタクの作品評価のあり方についても、一つの見通しを与えてくれる。
 最近のいわゆるオタク向けの作品には、単体の作品としてはそれほど出来がいいわけではないのにもかかわらず、過剰なまでに愛されるものが定期的に出てくる。これは、その作品が芸としての妄想のネタとして機能しているがゆえの事態である、と考えることができる。たとえば、作品としての出来がそこそこであったり、キャラクターの深みに欠けて濃い妄想には向かなかったりしても、それをダシにして他のオタクたちと妄想のキャッチボールをして楽しむことが容易であるような構成をしている作品は、広範な支持を獲得することがありうる。キャラクターの差異化が明確であるとか、萌えポイントがわかりやすいとか、ストーリーの縛りが緩くて妄想を差し挟みやすいとかいったような作品を思い浮かべていただきたい。
 そういった作品は、芸としての妄想のための材料、つまりはコミュニケーションのための材料として、オタクたちに愛されることになる。さて、ここで、芸としての妄想が、複数のオタクたちによって織りなされる文化的な営みであったことを思い出していただきたい。芸としての妄想のネタとしてある一定程度以上の支持を獲得した作品は、それを知っていないとオタク文化に参加しずらくなるようなものになるだろう。つまりは、オタク文化における標準として参照されるようになるわけだ。こういったわけで、特に合理的でもないQWERTYのキー配列が独占状態にまで普及したように、出来はそこそこの作品でも、コミュニケーションツールとしてのデファクト・スタンダードとなることで、「誰でも知っている」ものとなり、バカ売れしうるのである。
 だいたいいくつかの作品が皆さんの頭に浮かんでると思うが、そう、そのアレとかコレとかのことである。これまでの私は、基本的にそういった作品にたいする評価は辛めであった。しかし、ちょっと考え方を変えて、オタク文化において一定の役割を果たしているということを、もっと積極的に捉えてみたのである。

おわりに

 なんだか似たような話を繰り返しているような気もする。
 まだボケてはいないと思いたいのだが、もう昔のテキストでなにを書いたかとか、かなり忘れちゃっている。少し考え方変わったかな、と思ってメモったりしたのに、調べてみたら以前のコラムですでに同じようなこと書いていた、といったことが何度あったことか。まあ、だいたい同じような主張でも、さまざまな表現を与えることによって洗練されていったりすることもあるだろうから、気にしないことにしたい。

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