『大鉄人17』における「戦場の少年」

 このサイトもボチボチではあるがそれなりの年月続けてきている。始めた当初に「これだけは語っておきたい」と思っていた主題もかなりの数ヤッつけた。ただ、そのぶん、語りたいのだが語りにくいものが残ってしまった感もある。『大鉄人17』もその一つである。

 戦いのドラマは我々の魂を燃えあがらせる。ただし、それはそこに戦いをつうじて貫徹される信念があるときにかぎる。基本的に暴力というのは醜悪なものであるからして、信念なき戦いは嫌悪あるいは笑いの対象にしかならない。戦いそのものではなく、戦いという過酷な状況に投げ込まれた主人公たちが、その状況に抗い自らの信念を保ちつづけるさま、これに我々は燃えるのだ。そして、『大鉄人17』前半部は、まさに上に述べたような仕方で我々を燃やしてくれる作品となっている。

 ここで、「前半部」と限定をつけざるをえないということが、私にとって『大鉄人17』を語りにくいものにしている。周知のとおり、『大鉄人17』は第十六話で大幅な路線変更をする。第十五話までのシリアスかつハードな路線から、より子どもむけにコメディ色を強めた方向へと舵を切るのである。いろいろな意見はあるだろうが、私は路線変更後の『17』はあまり好きではない。出来が悪いというわけではない。そのものとして切り離してみれば、子どもむけ特撮としては「あり」なのかもしれない。しかし、前半部の素晴らしさはそういったレベルの話をはるかに超えている。魂が震えるのだ。これに比べると、どうしても後半については点が辛くなる。こういったわけで、『大鉄人17』を全体として評価することは、私にとってはどうにも難しいのだ。仕方がないので、以下では前半部についてのみ語る。

 人類の根絶を図る超絶的コンピューター、巨人頭脳ブレイン。それに対抗しうる唯一の存在が、自らの意志をもつ巨大ロボット、大鉄人17である。南三郎少年は、偶然にも17をブレインの封印から解除したことにより、ただひとり17と意志の疎通ができる存在となる。しかし、この偶然は、彼を抗いようのない仕方で戦場の只中へと引きずりこむものであった。ブレイン、そしてブレイン率いるブレイン党の標的となった南三郎は、国際平和機構レッドマフラー隊に入隊、17とともに世界の平和のために戦うことを決意する。

 このような「偶然に戦場の只中に置かれた少年」というモチーフは、いわゆる燃え系の作品において頻出する黄金パターンである。では、『大鉄人17』の素晴らしさはどこに存するのか。それは、先に述べた「状況に抗い信念を貫く」という燃えの核心がぶれることなく描かれている点にある。南三郎は図らずも踏み入れざるをえなかった戦場で必死に生き抜こうとする。彼は特別な人間ではない。友である大鉄人17と意志の疎通ができるだけの、ただの少年である。しかし、彼は自分の運命を自分の力で掴んでいこうとする。彼は子どもである。大人たちに庇護を求めても許される存在だ。しかし、彼はそれをよしとしない。自らに与えられた状況は自らの手で切り抜かねばならない。彼はその信念を貫こうとする。自らブレインに立ち向かおうとするのだ。

 「偶然に戦場の只中に置かれた少年」というモチーフを採る作品は多い、と述べた。しかし、そういった作品のうちにはどうしようもないものも少なくない。たとえば、少年が薄っぺらい子どもの価値観を振りかざしたうえに、なぜだかしらないがその甘ったるい価値観がまかり通ってしまう、というタイプの物語を誰でもすぐに二つ三つは想起することができるだろう。ここには「状況に抗い信念を貫く」という燃えは、たんなる見かけとしてしか存在していない。実際のところは、信念は状況を貫いてはいない。状況そのものが腰砕けのハリボテであるだけだ。また、そういった甘ったるい価値観をわざとらしく潰してみせて、リアルでごさい、シリアスでごさい、とポーズをとる物語も少なくない。これも駄目だ。状況の過酷さ、運命の非情さは、本物の信念の抗いをとおしてはじめて描かれるものだ。ヘナチョコな信念を潰してみせても、抗いのドラマは生まれない。上辺だけをとりつくろうハード路線ごっこには真の燃えはないのだ。

 しかし、『大鉄人17』は違う。「戦場の少年」の一つのあるべき描き方を示している。いくつか要となる点を指摘していこう。

 一つめ。力ではなく信念が戦いを導く。
 まず、南三郎のもつのが、17とのたんなるコミュニケーション能力でしかない、というところを強調したい。彼は選ばれた存在ではない。とりたてて優れた頭脳や肉体をもっているわけではない。彼が他者よりも優れてもっているものは、ただ、戦う理由と信念のみだ。ブレインの送り出したロボットの破壊活動に巻き込まれ、南三郎は父、母、姉を喪っている。その仇を討つべく、そして、同様の悲劇を阻止すべく、彼は戦う。なんらかの強大な力があるからではない。理由があるから、信念があるから戦うのだ。凡庸な燃え狙い作品は、主人公に安易に超常的な能力を付与する。しかし、そういった主人公の多くは、我々の心を揺さぶることはない。それは、連中が、力があるから戦っているように、つまり、もしも力がなければ逃げ隠れてしまうだろうように思えてしまうからだ。そういった奴らは偽者でしかない。勝てるときだけ戦うような賢しげな計算は戦士の論理ではない。戦士は戦うべきときに戦うものだ。そして、南三郎もまた、戦わねばならないと信じるがゆえに戦うのである。このあたり、南三郎を演じる神谷政浩の角ばった顎と「ヘ」の字口が、いかにも頑固そうな、いい味を出している。いわゆる美少年顔ではないのだが、そこがいいわけだ。

 二つめ。少年の行く手に立ちはだかる壁は厚く高い。
 だが、状況の過酷さ、運命の非情さは、南三郎の信念の貫徹を阻む。ブレインにたいして自らの力で立ち向かう、という南三郎の信念は固い。しかし、『大鉄人17』の戦場は、その信念の貫徹を容易に許さない。ブレイン党幹部、キャプテン・ゴメスとチーフ・キッドは、恐るべきテロ攻撃を次々に展開する。キャプテン・ゴメスを演じるのは平田昭彦、チーフ・キッドは山口豪久。なんとも豪華。軍服に身を包んだこの二人が並んでいるのを見るだけで震えがくるほどの存在感だ。また、二人が子どもである南三郎を舐めないところがまたグッとくる。きっちりと全力をもって彼の暗殺を試みたりする。プロフェッショナルだ。痺れる。そして、次々と襲い来るブレインロボットもまた、それぞれが唯一無比の個性を誇っている。石ノ森章太郎による第十五話までのブレインロボットのデザインは、どれをとっても神がかり的な冴えを見せている。(一方、17のデザインのほうは、いわゆる主役ロボットの縛りがあるからか、とりたててゾクっとさせるところはないように思う。)ブレイン率いるブレイン党は、文句なしの強敵なのである。

 三つめ。少年の信念はけっして折れることはない。
 そして、ここにもう一つ、私が強調したい点がある。このような難局にあって、南三郎は自らの内にこもって嘆くのではなく、空に向かって吼えるのだ。これがいい。ヌルい作品のヌルい主人公は難局を前にしてことあるごとにぐじぐじと泣き言を垂れる。なぜこんな運命が私に降りかかるのか、他の誰かでもよかったのではないか、というように。なんの影響か、最近はこの手の展開がよく見られる。このような腐った性根はただ不快なだけだ。細やかに心理を描く、ということと、志の低い精神の惰弱な逡巡を肯定する、ということを混同してはならない。すべてを失っての「俺の友だちは17だけだ!」という南三郎の叫びは、彼の心を余すことなく示している。しかし、そこに自らの運命から目を背ける気配はみじんもない。それゆえ、彼の叫びは我々を打つのだ。

 四つめ。少年は導かれて成長する。
 最後にレッドマフラー隊隊長、剣持保に言及しておきたい。少年は信念を貫こうとするが、壁は厚く高い。ここで重要になってくるのが、少年の成長を導く周囲の人間たちの存在である。そこで重要な役割を果たすのが、剣持隊長である。南三郎の信念に、剣持もまた応えようとする。剣持は南三郎をただ庇護するのではなく、彼をこの戦場にあって生き残ることができるような人間に育て上げようとするのだ。そして、どんな局面にあっても、剣持のこの信念は揺らぐことはない。この擬似的な父子であり、師弟であるような二人の関係が、ドラマの一つの軸となる。『大鉄人17』前半部は、17とレッドマフラー隊、ブレインとブレイン党、二つの勢力の戦いを縦糸に、そして、南三郎という子ども、剣持保という大人、二人の関わりあいを横糸に、そのドラマを織り成していくのである。というか、理屈はいいのだ。剣持隊長、かっこよすぎる。レッドマフラー隊指令、佐原博士にたいしては、歴戦の現場責任者として。レッドマフラー隊隊員にたいしては、鬼隊長として。南三郎にたいしては、目指すべき模範として。キャプテン・ゴメスにたいしては、戦場の好敵手として。すべての顔に一本筋がとおっている。実は、彼こそが『大鉄人17』におけるヒーローの位置にいる、と言っても過言ではないのだ。

 少しだけ『大鉄人17』後半部について述べておこう。すでに述べたように、子どもでも大人でもないトリックスター、岩山鉄五郎の登場とともに、『大鉄人17』は路線変更する。岩鉄というキャラクターそのものは嫌いではない、嫌いではないのだが、それとともに、子どもの甘っちょろい価値観がそのまま肯定されるような展開が目立つようになる。正直あまり面白くない。ときにイライラさせられたり、観ていて眠くなってしまって困ったりした。やはり私にとっては、『大鉄人17』は第十五話の、これまた自らの信念に殉じたキャプテン・ゴメスの壮絶な死をもって終っている。あとは蛇足だ。

 思い返してみれば、私がこよなく愛する特撮の多くは路線変更してのグダグダでイマイチな部分をもっていることになる。『アイアンキング』とか『超人機メタルダー』とか。『大鉄人17』も同じといえば同じだ。でも、どうも「コケた」感が前者二つよりも強く感じられるのは、なぜだろう。もう忘れたい『仮面ライダー響鬼』ほどではないが、なんだか全体として許せないんだよね。

 追記。このテキストを書く過程で、ブレイン党の大幹部ハスラー教授を怪演していた大月ウルフがピアニストのフジ子・ヘミングの弟だということを知った。ちょっとびっくりしたな。

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