誰がために戦う

はじめに

 これまでの拙稿において、私は「ヒーローもの」と「バトルもの」という言葉を使い分けてきた。ただし、その区別の基準は曖昧であった。なんとなくの語感に頼って区別をしてきたのである。そこで、ここらで、その区別の内実をきっちりさせておきたい。もちろん「ヒーローもの」と「バトルもの」は親戚くらいには近いのではあるのだが、それでもやはり混同してはならない場面があるのだ。

「なんのために」について

 「ヒーローもの」にもバトルはある。また、「バトルもの」にもヒーローはいる。では、「ヒーローもの」と「バトルもの」とはどこが違うのか。要素は同じでも、強調点の置き具合が違うのである。
 私なりの定義を述べてしまおう。ヒーローが、なにかのためにバトルする物語、これを「ヒーローもの」と呼びたい。それにたいして、ヒーローにとって、バトルがそれじたいとして目的になっている物語、こちらのほうを「バトルもの」と呼びたい。
 ひとことで言えば、ここで問題になっているのは、バトルが「なんのために」なされるか、ということである。
 「ヒーローもの」が「ヒーローもの」であるかぎり、バトルが「なんのために」なされるかを描かなければならない。その「なんのために」が、作品そのものにとっても、受け手にとっても、物語の核をなすのである。
 「バトルもの」は違う。「バトルもの」では「なんのために」は物語の核を占めない。バトルは「なんのために」を問われることなく描かれる。描かれても、添え物程度に留まる。そして、その「なんのために」は、受け手にとってどうでもいいものとして扱われるのである。
 もう少し詳しく述べよう。
 「ヒーローもの」におけるバトルは、なんらかの価値観の相克に基づいて生じる。たとえば、以下のような相克はさまざまな「ヒーローもの」で繰り返し描かれてきた。正義を信じる者と、悪に染まった者。みんなの幸せを祈る者と、自らの利益のみを求める者。誰もが笑える未来を求める者と、誰かを切り捨てて現在を守ろうとする者。復讐に燃える者と、自らの野望を追う者。他にもいろいろあるだろう。こういった価値観の相克がまずあって、それゆえにバトルが生じるのが、「ヒーローもの」である。正義のヒーローであろうがダークヒーローであろうがピカレスクヒーローであろうが、そうなのだ。
 それにたいして、「バトルもの」におけるバトルは、共通の価値の追求に基盤を置く。バトルするものたちは、「あるなにかが重要だ」という価値観を共有している。しかし、そのなにかが希少であるがゆえに、それを奪い合ってバトルするのである。同様の構造をもつのが「ゲームもの」と「スポーツもの」である。そこで争う者たちは、あるゲームないしはスポーツの土俵に乗っている。ここで、その土俵そのものの価値について問うことに意味はない。サッカー漫画のキャラクターにたいして「試合に勝つことが君の人生においてどういう意味をもつのかね」と訊くのは野暮というものだ。サッカーの試合の勝利に価値がある、というのは、話の前提なのであり、それを疑うことに意味はない。それと同様に、バトルものにおいて、「なんでそのバトルをするのか」ということは、問うことが無意味な前提となるわけだ。受け手は、ただただそのバトルなりゲームなりスポーツなりの展開そのものを楽しめばいいのである。
 ただし、もちろん、この区別がいつも明確であるとはかぎらない。ちょっと映画に脱線する。
 インディアナ・ジョーンズものは興味深い。『最後の聖戦』(1989年)がわかりやすいか。あれは、導入は「争奪戦」の形式を採っている。敵味方が同じものを求めて争うのだ。これは「バトルもの」の形式である。しかし、この作品、クライマックスで、敵味方のあいだで価値観が相克する状況をつくっている。そこで、実は物語が「ヒーローもの」であったことがわかる、という仕組みになっているのだ。なるほど、の工夫である。
 逆なのが『戦略大作戦』(1970年)である。価値観の相克に基づいているはずの戦争を「争奪戦」にズラしてしまうのだ。「なんのために」と問うならば、そりゃ「金塊のため」である。それ以外にない、というわけだ。面白いのは、敵のほうは、このバトルが「争奪戦」であることに気づいていないということだ。ラストで、立ちふさがる敵までもが「これはヒーローものではなくバトルものなのだ」と気づいた瞬間に、物語は爽快な結末を迎えることになる。これまた興味深い。

「劣化ヒーローもの」としての「バトルもの」

 さて、ここで一つ問題を提起しておきたい。
 「バトルもの」と呼ばれているものの一部は、実のところは「劣化ヒーローもの」なのではないだろうか。
 なんらかの事情によって、本来描くべき価値観の相克が背景に退いてしまったがゆえに、「ヒーローもの」が、「ゲームもの」や「スポーツもの」に近いものに変質してしまうことがある。このとき、「ヒーローもの」は、本来はそうではないのにもかかわらず、「バトルもの」のようになってしまう。これが「劣化ヒーローもの」としての「バトルもの」である。
 劣化、という言葉を使うのは、こういった作品がほとんどの場合物足りないものになってしまうからだ。「ヒーローもの」であるのにもかかわらず、その本質的な要素を描き落としているのであるからして、当然のことである。
 これは、とりわけ長期に連載される漫画作品に目立つ。
 最初は「ヒーローもの」を目指していた少年漫画が長期に連載を重ねることがある。このとき、バトルのたびに、いちいち価値観の相克を理由として描くことが面倒になる。そうなると、とにかく次々強い敵がやってきてそれと戦うだけで、あるのはとってつけたような浅薄な理由づけの反復だけ、ということになりがちだ。「ヒーローもの」が、「なんのために」を欠いたまま、バトル描写の連続を垂れ流すだけものに変質してしまうわけだ。「ヒーローもの」の「バトルもの」への劣化である。
 もちろん、「バトルもの」のすべてがこうだ、というわけではない。
 「なんでそのバトルをするのか」を抜きにして、純粋にバトルの展開だけで魅せてくれる作品も多い。受け手は、たとえば「なんでギャンブルするのだろう」とか「なんで中華料理つくるのだろう」とかいったことにそれほど思い悩む必要なく、ただただバトルを楽しめばいい、というわけだ。こういった作品は、正真正銘の「バトルもの」と言えよう。

受け手の側の問題

 「ヒーローもの」の劣化という事態は、作品だけの問題にとどまらない。受け手のオタクの側の問題でもある。
 「萌える」ということについて、以下のように言うことができる。すなわち、レベルの低い萌えは、キャラクターを属性によって軽薄に作品から切り取ったうえで消費するという、低レベルな物語受容に繋がる、と。
 ここで私が強調したいのは、同様の事情が「燃える」ということにおいても起きる、ということだ。
 こういうことだ。レベルの低い燃えオタは、キャラクターすなわちヒーローを属性によって軽薄に作品から切り取ってしまう。このとき、しばしば、ヒーローの「なんのためにバトルするのか」という事情が忘却されてしまうのである。ヒーローが、たんにその能力にばかりに着目して把握されてしまうのだ。これはつまり、「ヒーローもの」を「バトルもの」として読んでしまう、ということだ。私は、これは許しがたくヌルく薄っぺらい態度であると考える。
 たとえば、最強の仮面ライダーは誰か、という議論がなされることがある。私にはこれは意味不明である。
 仮面ライダーの戦いは、「なんのために」と切り離して理解することのできないものだ。それはすなわち、仮面ライダーの強さもまた、「なんのために」を抜きにして測定することができない、ということを意味する。腕力がどれくらいとか、ジャンプ力がどれくらいとか、下らないことだ。人類の平和と正義のために戦うとき、仮面ライダーは必ず勝つのだ。無敵なのだ。これは数字の問題ではない。信仰の問題だ。そして、人類の平和と正義のために戦う者同士が争うことなどない。そこに比較の余地などない。
 2号とブラックのどちらが強いのか、などという問いを、たんなる戯れを超えて真剣に受け取ってしまうのは、「ヒーローもの」を誤って「バトルもの」と読み違えているとしか思えないのである。
 また、いくつかのロボットアニメからロボットを集めてきて、戦闘力の比較がなされることがある。これまた私は好きではない。
 そういった場合には、惑星をどうこうできるとか銀河をどうこうできるとかいった描写をもつロボットが当然のことながら上位にくる。まったくもって下らない。そんなものはたんなる設定にすぎない。そのロボットが登場する物語が「なんのために」をどのように描き、それでもってどれだけ我々を燃やしてくれたか、このことを抜きにして強さを語ることなどできない。いかに水増しされた設定をもとうとも、そのロボットが薄っぺらな燃えしかもたない物語の出であれば、そんなハリボテを破壊することなど量産兵器の機銃の一掃射で十分なのである。
 「ヒーローもの」を「バトルもの」と読み違えているから、物語の燃えの格の違いの重要性が見失われるのだ。
 あなたが中学生のときにこっそりノートの隅に書いた、オリジナルのヒーローの設定を思い出していただきたい。それがどんなに中二病的な最強設定で固められていたとしても、「ぼくのかんがえたさいきょうのナントカ」は未だヒーローではない。それは、そのヒーローもどきが「なんのために」、すなわち、バトルに向かう理由の熱さ重さを欠いているからだ。熱い正義の血潮や、煮えたぎる復讐の想いや、守るべき人々への愛がそこにないからだ。
 「なんのために」は、物語なくしては、それも、燃えを理解し愛するオタクたちに評価されるような物語なくしては、それとして存在しえないのである。
 「なんのために」という理由を得てはじめて、魔竜院光牙が「本物」になったことなどを想起されたい。ちょっと捻ってはあるが、同じことだ。(田中ロミオ『AURA 魔竜院光牙最後の闘い』。)

おわりに

 極端に言えば、ヒーローが強くある必要などないのだ。ヒーローに必要なのは、「なんのために戦うのか」という理由の熱さ、重さ、ただそれだけだ。それが勝利を導くのが「ヒーローもの」なのだ。「ヒーローもの」における勝敗は「バトルもの」とは異なり、勝者が弱者より強いことを意味しはしない。すでに指摘したように、「ヒーローもの」のバトルの核心にあるのは価値観の相克である。これはすなわち、どちらの価値観が筋を通すのか、ということが勝敗の核心にある、ということである。繰り返そう。重要なのは強さではないのだ。ヒーローを能力の設定でヒーローらしくすることはできない。能力の特異性や卓越性など、ヒーローにとってなんら本質的なことではない。
 「ヒーローもの」を「ヒーローもの」として愛する、ということは、徹底的に「なんのために」にこだわることだ、と私は考える。9人の戦鬼はなんのために、誰がために戦うのか。愛のため、戦い忘れた人のために戦うのだ。それを欠いてなんのヒーローか。それを見失ってなんのヒーローオタか。
 設定至上主義、能力至上主義に陥ってはならない。数字の大小に囚われてはならない。それは燃えの堕落なのである。
 最後に一つ注意をしておく。本稿は「バトルもの」の価値を貶めることを意図したものではない。私は「ヒーローもの」を好むので、そちらに重心を置いたテキストになっているが、よい「バトルもの」も数多くあることを否定するものではない。

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