悪者道

 正義の味方、ヒーローではなく、悪者について考えてみたい。
 ただし、本稿の眼目は、悪者一般にかんしてその条件を云々するというよりは、悪者にかんする私の好みを述べることにある。

 萌えるヒロインや燃えるヒーローにはそれなりに巡り合うのであるが、どうもこのごろキュンとくる悪者に出会うことが少ない。悪者にかんしての私の好みの幅が狭いせいかもしれないが、それだけでもないはずだ。
 現実が、誰かに悪のレッテルを貼り付けて自らの暴力の行使を正当化しようとする連中だらけの時代だからだろうか、昨今の虚構作品の悪者の描き方には、どこかに煮え切らないところがあるように思える。考えすぎというか、捻りすぎというか。
 こういう時代だからこそ、思わず濡れてしまうような素敵な悪者を虚構は真正面から描くべきではないか。そのような営みが、巡り巡って現実の政治的社会的な文脈での「悪」という言葉の不適切な使用にたいする批判的な視座を準備しうるのだから。
 まあ、どうでもいいことであるが。

 ともあれ、私が好きなのは、悪者らしい悪者である。
 では、それはどんなものなのか。順を追って考えてみる。最初は一般論から入っていき、だんだん私の個人的な好みの表明に移行していく。

 悪者には、物語において、それなりに重要人物であってほしい。
 物語には、乗り越えるべき障害がつきものである。主人公が障害を乗り越えるさまが、物語を盛り上げるのだ。
 我々が悪者に注目するのは、彼(女)が物語における障害の役割をしっかりと果たしているからであろう。これはつまり、物語にきちんと位置をもっているということである。
 くわえて、それなりに実力者であってほしい。
 主人公にとっての障害であるとしても、すぐに乗り越えられてしまうような小者であれば、お呼びではないだろう。

 きっちり悪い奴であってほしい。
 物語には障害がつきものである、としたが、その障害は必ずしも道徳的に悪いものである必要はない。スポーツやゲームの対戦相手は、主人公にとっての障害であるが、悪であるわけではないだろう。
 悪者が悪者であるためには、きちんと悪でなければならないのだ。好みとしては、煮ても焼いても改心しないくらいに腐った悪者がいい。少なくとも、敗北の後で主人公たちの仲間になれてしまうくらいの悪さでは、私としてはまったく物足りない。少年バトル漫画のライバルキャラでは弱いのだ。

 もう少し具体的に「きっちり悪い」ということを説明しておこう。
 たとえば、違法行為やマナー違反をしたからといって、悪者にはならない。悪者は誰からも「道徳的に悪い」と見なされるようなこと、邪悪なことをしていなければならない。
 さらに、たんに道徳的に悪い行為をするだけでは足りない。性根からして悪くないといけない。
 人間誰しもときに悪いことをしてしまうことがある。しかし、無知や外的な事情や心の弱さなどのゆえに悪をなしてしまった人は、「悪者」と呼ぶにはちと弱い気がする。悪い行為をするだけでは、真の悪者扱いはしてもらえないのだ。性根から腐っていて、悪い性根のゆえに悪事をなすのが真の悪者というものであろう。
 また、こういうわけなので、「人は誰しも生きているだけで罪を負っています」という思想は、宗教や哲学の観点からすれば興味深いのかもしれないが、娯楽作品において強調しすぎるのはよくないのである。皆が悪者ということになってしまうと、とりわけ悪い悪者の存在が霞んでしまうだろうから。

 わかったうえでしなくてもいい悪事をやっていてほしい。
 性根から悪い、ということを説明しておこう。悪者が悪者であるのは、悪いことだとわかったうえで、しないでもいいのに自発的に悪をなすからだ。
 悪いことを悪いことだとわかっていない存在、悪いことしかできない存在は、悪者にはなりえない。いくら大きな被害をもたらそうとも、地震や台風のような自然災害は悪とは呼ばれない。人を食べてしまうとしても、鮫や虎のような野獣は悪とは呼ばれない。それが悪いことだとわかっていないし、他の振る舞いを選択できるわけでもないからだ。
 これは単純なことなのだが、見失われがちだ。あえてこの言葉を使うが、中二病的な作品は、ときに、ものすごく悪い奴を創造しようとして「純粋な悪」とか「悪いことしかできないほど悪い」とかいった表現をしてしまうことがある。しかし、これは間違いだ。悪いことしかできない存在を、我々は悪と呼ばないのである。
 こういったわけで、「邪神」の誘惑には注意しなければならない。「邪神」さんは悪いことをするのが当たり前なので、自然災害に近くなりがちである。実はよい悪者になりにくいのだ。

 生まれ育ちに性根の悪さの原因が見当たらないことも大事である。
 「しなくてもいい」というところをもう少し詰めてみよう。しなくてもいい悪をなぜなすかというと、性根から悪いからだ。
 ここで注意すべきは、続いて問われることがある「では、なぜ性根が悪くなったのか」という疑問に答えを与えるべきではない、ということだ。
 社会の底辺で育ったとか親の愛情が足りなかったとか事故で頭を打ったとか、性根が悪くなった原因が明示されてしまうと、「そういう事情があれば悪いことをしても仕方がない」という感じが出てしまう。
 しかし、それでは、「しなくてもいいのにした」という含みが消えてしまう。悪者ではなく、悪に追いやられた気の毒な人に思えてきてしまうのだ。つまり、悪者は、あくまで自己責任で悪者であるべきなのだ。
 自己責任論は現実の社会問題を考える場合にはまず役に立たないわけだが、虚構の娯楽作品においては有効に機能しうるのである。

 悪「者」、つまり、キャラクターであってほしい。
 中二病的な作品には、物語の障害を「悪者」ではなく「悪」にしてしまう傾向がある。抽象的観念的に「悪ってなんだろう」を思考のなかで捏ねまわして、それを理屈のうえでヤッつけようとしてしまうのだ。しかし、それは道徳の説法や倫理学の仕事であって、娯楽物語のやるべきことではない。
 少なくとも私が娯楽作品に求めているのは、悪を論破することではない。理屈に気をとられるとできあがる頭でっかちな「悪の象徴」的キャラクターは、往々にして個性の欠けた魅力のないものになりがちだ。これはつまらない。私が求めているのは、血肉を備えた個性豊かな悪いキャラクターとの血で血を洗う戦いである。敵はキャラクター、それもきちんと立ったキャラクターでなければならないのだ。
 たとえば、敵は「テロ」ではなくまず「テロリスト」であり、「戦争」ではなくまず「戦争屋」であるべきだ。「罪を憎んで人を憎まず」ではなく、「人を憎んで罪を憎まず」が、娯楽の基本になるわけだ。娯楽をより楽しくするためのアクセントを超えて小難しいことを考えてはならないのだ。

 自らの悪事を正当化しようとしないでほしい。
 たとえば、人類を滅亡させようとするさいに、「どうして人類は滅亡しなければならないか」を真面目に説明したがる悪者がいる。私はこの手のタイプがあまり好みではない。その生真面目さがどうも悪者としての格を下げてしまっているように感じられてしまうのだ。
 もちろん、大きな悪の組織を創造する場合には、なんらかのイデオロギーが必要になるので、幹部クラスにこういうタイプが必要であったりすることはある。しかし、そういった動機の正当化の論理は、やはり見るからにうさんくさいものであってほしいものだ。たとえば、悪者のアジテーション演説は、見るからにインチキくさいものであるべきなのだ。
 そうでないと、その正当化の論理を論駁する必要ができてしまう。これはつまり、敵がキャラクターではなく悪の観念になってしまうことを意味しよう。これが望ましくないことはすでに述べたとおりである。

 さらに贅沢を言えば、独特の悪の美学が垣間見える悪者がいい。
 自らの行為を正当化しようとするのは、他人に自分をわかってもらいたいときであろう。それでは悪者として軟弱というものだ。
 悪者は、自らの性根の悪さに基づいた、ひとりよがりな悪の美学をもっていてほしい。そして、その美学に基づいて、端の迷惑も顧みず、わかったうえでしなくてもいい悪事をやっていてほしいものである。
 「なんでそんな悪いことをするのか」と問われたときに、理屈を返すのではなく、「ソレが私の美学なのだ」と対話を拒否してこその悪者である。

 人間的魅力がいまひとつないほうがいい。
 独特な悪の美学は、独特であるかぎり、悪者どうしでも共有しづらいものであるはずだ。そういうわけで、真の悪者は、悪者仲間たちにとっても嫌な奴であってほしいと思うのだ。組織や上司に忠実だったり、同胞や部下に慕われていたりするような場合は、やっぱりどこかに人柄の善さが残っている感じがしてしまうのよ。
 たとえ悪の組織に属していたとしても、そのなかでさえ微妙に鼻つまみ者だったり嫌われ者だったりしてほしい。組織を率いている場合には、部下を恐怖や快楽といった殺伐とした手段で統制しているか、悪の心理学で洗脳して操っているかしてほしいのだ。
 同様の理由で、容姿が美形にすぎるのもちょっと嫌だな。

 最後に具体的例を挙げておこう。古典的な作品から、私の好きな悪者を三人選ぶとすれば、以下のようになるだろうか。

 シェネガール・トロット。
 カズィクル・ベイ。
 小東夷。

 サセックス伯シェネガール・トロットは、マイクル・ムアコック『ルーンの杖秘録』に登場する、暗黒帝国グランブレタンの重鎮の一人である。極悪非道の退廃貴族揃いのグランブレタン帝国にあっても変わり者として一目置かれている。見た目は弛緩した肥満中年であるが、無駄に有能な軍人であり、悪いことに、その軍事的才能を好き勝手に残虐な方面に振り回すのが大好き。なんとも素晴らしい、理想的悪者である。物語的には悪役の中核はメリアダスなのだが、キャラとしてはトロットのほうが伸び伸びと悪事をしていて私は好きなんだ。
 グランブレタン帝国そのものも私の好きな悪の組織の上位に入る。

 カズィクル・ベイ将軍は、菊地秀行『夜叉姫伝』に登場する、魔界都市新宿に襲来した吸血鬼一団の一人である。お高くとまった中華吸血鬼たちのあいだにあって、その剥き出しの暴力性が異彩を放つ異邦出身の魔人だ。「カズィクル・ベイ」つまり「串刺し公」の名に恥じぬ狂猛な暴走っぷりをみせてくれる。
 彼の評価が高いのは、秋せつらとの死闘の素晴しさのゆえでもある。菊地秀行のバトルはひねりすぎてわけがわからなくなってしまう場合があるのだが、せつら対ベイ将軍は真っ向からの激闘で痺れる。上智大学の近くにいくといつも血が滾ってしまうほどに。

 小東夷は、工藤かずや、浦沢直樹『パイナップルARMY』に登場する正体不明の日本人テロリストである。世界各国のテロ組織を統合した史上最悪のテロ集団「黒の手紙結社」の首魁として、欧州全土を核物質テロで壊滅に導こうと企む。素晴らしいのが、この心ときめく壮大な悪事を愉快犯でやろうとしているところだ。なんとも悪いではないか。
 冷戦が終りかけていた当時だからこそ活躍しえた名悪役と言えよう。現在では現実のテロリズムのイメージが強すぎて、虚構の娯楽作品で上手くテロリストを描くのが難しくなってしまっているからなあ。
 結局、最後まで一度も読者の前に顔を晒すことはなかったことが、さらに我々の彼にたいする思い入れを深くする。心憎い演出である。

 というわけで、三人ともが、これまで挙げた諸条件を満たしている。まあ、彼らを念頭に置いて条件を挙げていったようなものだから、当然と言えば当然であるが。私の好きなタイプは基本的にこんな感じである。

 もちろん、キャラクターのタイプだけですべてが決まるわけではない。
 この手の悪者が登場したとしても、お話の出来が悪ければどうしようもない。また逆に、お話そのものが燃えるものであれば、タイプではない悪者に入れ込んでしまうこともある。
 そのあたりを考え合わせると、もうちょっと視野を広げて悪者語りをしてみたくなるのだが、それはまた別の機会にということで。

 最後に謝辞を。本稿は掲示板でのヴァリオン氏との対話に基本的な発想の多くを負っている。ありがとうございました。

ページ上部へ