押切蓮介のギャグとホラー

 オバケは怖いものである。しかし、よく考えてみると、「オバケが怖い」という表現は正確ではないのかもしれない。
 人間の認識能力には限界があって、自分の背後とかベッドの下とかマンションの廊下の突き当たりの暗闇の中とかを直接的に知覚できない。普段はそれを習慣とか記憶とかで補って行動しているので、この認識の欠落が気にならないだけなのだ。
 オバケものホラーという文芸ジャンルは、ここを揺さぶってくる。習慣とか記憶とかは実は当てにならないものであって、欠落は欠落でしかない、ということを我々に突きつけてきやがる。そして、その欠落部分に「なにかいるよ」と囁きかけてきやがるのだ。これが怖いのである。
 さらに、似たような議論をもう一段重ねることができる。我々は他人の心の中身を覗くことができない。目の前の相手がどんな人間なのか、するっと透明に見通せるわけではない。ここでもホラーは我々の不安な心を暴走させる。目の前のソレの表皮は人間風かもしれない。しかし、その内部は我々の認識にとってまったくの暗闇ではないか。もしかしたら目の前の相手の中身は、人間ではないナニカかもしれない。フングルイームグルウナフーなのかもしれない。ホラーはこう囁きかけてくる。これも怖い。
 まとめるとこうなる。我々が怖がっているのは、「そこにいるなにか」ではなく、「なにがいるかわからないこと」なのである。まずは、姿形がよくわからないのが怖い。そして、たとえ姿形がわかったとしても、その中身がなんなのかよくわからない。そういったことが怖いのである。

 以上のオバケ論はいろいろと応用ができる。
 オバケは、出てくるまでがいちばん怖くて、出てくると少し怖さが薄れる。これは、オバケがオバケとして認知された時点で、ある意味で認識の欠落が充足されてしまうからであろう。
 多くの除霊譚で、オバケ退治がオバケを理解することを介してなされることも、ここに由来する。オバケがどんな未練でオバケになって、この世でなにをしたいのかがわかった瞬間に、そのオバケはもう九割かた怖くなくなってしまっている。つまりは、九割かた退治されてしまっているのである。それがいささかトンデモなものであれ、オバケのオバケなりの理屈が理解できた瞬間に、この世には不思議なことなどなにもないのだよ、ということになり、オバケはオバケでなくなってしまうわけだ。なにがなんだかわからない不条理なオバケは、条理のうちに回収されることで、浄化されるのである。
 さらに言えば、オバケの目が必ず虚ろであったり据わっていたりすることも、ここから理解できるだろう。我々は目から他人の心を覗こうとする。しかし、オバケの目は、そのまなざしを拒絶するのである。

 さて、以上のような一般論を踏まえたうえで、押切蓮介の諸作品について少々考えてみたい。まずは彼のホラーギャグを取りあげてみる。
 押切ホラーギャグのオバケにたいする態度には、二つの特徴がある。
 一つめの特徴は、もちろん、オバケを殴ることができることである。
 オバケをヤッつけることは、普通、オバケを理解することを介してなされる、と述べた。ところが、たとえば『でろでろ』の日野耳雄はそうしない。耳雄はオバケの側の事情にろくに耳を傾けようとはせずに、とにかく殴っちゃうのである。
 これを、たんに暴力でオバケをヤッつけている、と見るべきではない。ここでは、なにがなんだかよくわからない不条理な存在であるオバケに、さらに不条理な暴力がぶつけられているのだ。不条理を条理に回収するのではなく、不条理を不条理に重ねているのである。
 この不条理の過剰な畳みかけが味噌だ。これはまったくもってオバケを馬鹿にした態度である。せっかくのオバケの不条理性を丸々無視してしまっている。これが面白い。一度目の不条理は恐怖を生むが、二度目の不条理は喜劇となるのだ。この笑いは、オバケの怖さを、つまりはオバケの本質そのものを解消してしまう。耳雄の除霊は、オバケを殴り飛ばすものというよりは、オバケの恐怖を笑いで脱臼させるものなのである。
 二つめの特徴は、オバケを非難できることである。
 押切キャラはたんにオバケを殴るだけではない。オバケを非難したり、オバケに説教をしたり、果てには逮捕して取調べたりするのだ(「マサシ!!うしろだ!!」)。これもまた不思議なことである。
 地震で人が死んだり、虎が人を咬んだりしても、我々は地震という出来事や虎の振る舞いを恨めない。地震や虎というものは、そもそもそういうものであるからして、そうなったことは仕方のないことだからだ。非難の身振りは、道理を解する相手に向けたときのみ意味をもつ。地震や虎はそもそも道理を解さないので、それらにたいして道理に外れたことを非難するのは不合理なのである。
 では、オバケはどうか。オバケとは、そもそも人を呪い殺したりするなにがなんだかよくわからない不条理なものである。オバケは本質的に我々の道理の外部にいるモノなのだ。それゆえ、普通は、オバケの所業が非難されることはない。自然災害や動物と同じで、オバケを非難しても仕方がないはずだから。
 ところが、押切作品においては、オバケは非難される。オバケにたいして、人の世の倫理道徳が説かれたりするのだ。やめろ!猿をいじめるな!という感じに。この馬鹿馬鹿しさも、理不尽な暴力と同様の機能を果たしていると考えられる。説教は、そのものとしては条理に基づくものだ。しかし、不条理な存在に条理を説くほど不条理なことはない。つまり、オバケへの非難もまた、不条理に不条理を重ねて、オバケの怖さを笑い飛ばす除霊の道具立てになっているわけだ。

 押切ホラーギャグにかんして、オバケを殴ることができるということ、オバケを非難できるということ、これら二つの特徴的な要素を挙げた。さて、この二つの要素が笑いを生むためには、暴力や非難の対象がオバケである必要がある。相手がオバケであるからこそ、それに向けられる暴力や非難が頓珍漢で馬鹿馬鹿しいものとなる仕組みになっているわけだから。
 では、相手がオバケではなくなったときに、どうなるのか。それが非常によくわかるのが、『ゆうやみ特攻隊』と『ミスミソウ』である。
 この二作品にも、先に指摘した過剰な暴力と不条理にたいする非難という要素はきちんと含まれている。違いはただ一点、暴力や非難の向かう先がオバケではなく人間である、ということのみだ。その一点のみが変わるだけで、両作品ともホラーギャグではなくなっている。
 『ゆうやみ』は最初こそ「肉弾ホラーギャグ」であったが、ミダレガミの登場を経て、黒首島の鉄一家が登場した時点で、「肉弾ホラーアクション」となった。姉を殺されたことにたいして、主人公である辻翔平は「理不尽である」との思いを抱いていたわけだ。その思いがミダレガミというオバケに向いていたあいだは、『ゆうやみ』はまだホラーギャグであることができた。ミダレガミがオバケであるかぎりで、ソレは不条理に振舞うものであっても仕方がない、という含みが残っていたからだ。しかし、ミダレガミの背後に黒首島に住まう人間たちが浮かび上がってきた時点で、辻翔平の復讐の念は、もはや笑える不条理ではなくなった。鉄家の人々に向ける辻翔平の怒りは、読み手の誰もが共感できる、当然のものになったのだ。不条理に害を撒き散らすオバケと異なり、不条理に害を撒き散らす人間は、まさに邪悪な敵に他ならないからだ。
 ここから、押切ホラーギャグが、いかに「オバケ」という存在に依存しているかが理解できるだろう。押切蓮介流のホラーギャグがギャグとして成立するのは、相手がオバケであるかぎりなのである。
 押切蓮介が本格派のホラーを描くときには、だいたいがオバケの恐怖ではなく人間の恐怖を描くものになるのは、この事情の裏返しである、と考えられる。本格ホラーの代表作、短編「かげろうの日々」や『ミスミソウ』を思い浮かべていただきたい。どちらもオバケものではない。オバケものではないからこそ、そこで描かれる自らが被った不条理な仕打ちへの煮えたぎる怒りと憎しみは、目を背けたくなるほどに痛々しくなるのである。オバケものではないからこそ、そこで描かれる復讐の暴力の残虐さは、一種の美しさを纏って我々を魅了するのである。

 さらに一歩踏み込んで、押切蓮介のホラーの基本軸は、オバケものではなく、人間ものにある、と考えることもできるだろう。
 本稿冒頭でオバケものホラーの基本構造について論じた。人間が織り成すホラーは、それとは異なる基盤に立っている。オバケの怖さは「それがよくわからないこと」にあった。しかし、人間の怖さは違う。我々はそれを現実を介してよく知っているのだ。しかし、それを直視するのが怖いので、気づかないふりをしているのだ。
 人間ものホラーは、その「実はよくわかっているのだが気づいていないふりをしていること」を暴いてしまう。無残な人間の現実をそのまま目の前に突きつけてくるのだ。
 他人が自分より幸せなことが妬ましいということ、他人を苛めることが楽しいということ、他人の苦痛が結局は他人事であること、笑顔の背後でみんなが私を嫌っているかもしれないということ、幸せな日常など簡単に台無しになること、一歩道を踏み外せば自分もなにをするかわからないということ、等々、等々。このような見たくない現実を我々に剥き出しのままに突きつけてくるところに、人間ものホラーの恐怖は存している。そして、『ミスミソウ』などを読むかぎりでは、押切蓮介は、正面からホラーを描くときには、この線に乗っかっていく作家なのである。
 思い返してみれば、押切ホラーギャグのオバケたちは、どこか人間くさい。その人間くささは、ホラーギャグの枠内では、なんとなく愛嬌として受け取られている。しかし、人間的な愛嬌の奥に、人間的な醜悪さも垣間見えてはいないだろうか。「カースダイアリー」の老婆、「悪霊ドリル」の悪霊、そして『でろでろ』の怪人たちも、すべてどこかに人間的な醜さを携えている。もしかしたら、押切ホラーギャグを、人間ものホラーにおける「人間」をあえて「オバケ」として描くことで、陰惨きわまりないホラーを大胆にギャグに編み直したもの、と解釈することもできるかもしれない。『でろでろ』なども、よく読むとそれなりに暗く濃いモチーフを扱ったりしているのである。
 最後に『ミスミソウ』の位置づけを再確認しておこう。この作品、『でろでろ』メインの押切ファンには異質なものとして受け取られがちのように思える。しかし、私の考えでは、『でろでろ』の芸風と『ミスミソウ』の芸風は実は表裏一体のものなのである。

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