キャラクター構造の多層性について

はじめに

 オタクにとってキャラクターとはなにかということが本稿の問題である。これにかんしてはすでにいろいろと書き散らしてきたのだが、もう一度考えなおしてみたい。
 少なからぬ論者がキャラクターを第一義的に属性の集合として位置づける。しかし、本稿ではこのような立場から一歩進んで、キャラクターという存在を構成する諸要素を四つの位相に区別してみたい。
 ここからキャラクターの見せる複雑な振る舞いをよりよく説明することが可能になると思われるのだ。

キャラクター構造の四位相

 あるキャラクターが存在しているとしよう。そのとき、そのキャラクターがなんであるかを規定する諸要素を、以下のようなかたちで区別することができるのではないか。
 第一層、キャラクターの属性。あるいは本質。
 第二層、キャラクターの出自。あるいは雰囲気。
 第三層、キャラクターの系統。あるいは歴史的位置づけ。
 第四層、キャラクターの様態。あるいは主観的思い入れ。
 順に検討していこう。

キャラクターの属性

 そのキャラクターがなんであるのかを規定するもっとも主要な要素は、やはり属性であろう。あるキャラクターは、複数の属性の組み合わせから理解される。また、構成する属性の違いに応じて、他のキャラクターと区別されることになる。つまり、属性とはキャラクターの本質を構成する性質なのである。属性には外見、職業、性格、間柄などさまざまなものがありえ、その種類にそくして別個の扱いを要求してくるのだが、それらの差異については本稿では扱わない。
 このような属性による分析は、キャラクターについての公共的な理解を与えてくれるものであり、たいへんに重要なものである。しかし、問題がないわけではない。
 そもそも、属性は、原理的に複数のキャラクターによって分有可能なものである。ある一個のキャラクターしかもちえない性質は、属性とは言えない。「涼宮ハルヒ性」は涼宮ハルヒしかもちえないので、属性ではない。簡単に言えば、属性は普遍的なものなのである。
 さて、ここで問題がおきる。我々オタクは、キャラクターにたいして、普遍である属性の組み合わせでは汲み尽くしえないような含みがある、という直観をもっている。属性分析はそれはそれで正しい。しかし、属性分析では割り切れない過剰が、キャラクターには、とりわけ、オタクの愛に値するようなキャラクターには事実として感じられる。キャラクターのすべてが属性分析で尽くされると考えることはできないのだ。
 では、属性では汲み尽せない余剰とはなんなのか。以下、三つの要素を指摘してみたい。

キャラクターの出自

 出自は、キャラクターの偶然的な性質をなす。キャラクターの属性は、「もしそれが違ってしまったら、別のキャラクターになってしまう」という含みをもつ要素である。つまりは、そのキャラクターの本質をなすわけだ。偶然的性質は、「それがなくなっても別のキャラクターになるわけではない」要素ということになる。
 ここで注目したいのは、「そのキャラクターが登場するオリジナルの物語がどのような世界観をもつか」ということである。
 キャラクターは、オタクの妄想において別の物語へと置き入れられる。つまり、キャラクターは複数の物語において存在することができる。では、そのような物語間の移動において変わらないものはなにか。属性である。つまり、属性の同一性は、複数の物語間でのキャラクターの同一性を説明することができる。
 これはすなわち、属性さえ保たれていればオリジナルの物語を離れてもキャラクターは同じキャラクターで在りつづけられる、ということである。これは、「オリジナルの物語がどのようなものか」が、キャラクターそのものにとっては偶然的な性質であることを導く。
 しかし、キャラクターが複数の物語に存在することができるとしても、それらの物語が同等であるわけではない。オリジナルの物語は、キャラクターの規定に特権的な影響をもつと思われる。
 ほとんど同じような属性で構成されたキャラクター甲と乙があったとする。定義上、属性に頼っては、これらのキャラクターを妄想において区別することは難しい。
 しかし、キャラクター甲の登場するオリジナルの物語が、三頁に一人の割合で人が死ぬ激烈ヴァイオレンスものであり、キャラクター乙の登場するオリジナルの物語が、ゆるゆるまったりの萌えコメであったらどうか。我々は属性がほとんど同じであったとしても、キャラクター甲と乙とのあいだに鮮烈な区別を感じるのではないか。人を殺めたことがないキャラクターであっても、たくさん人が死ぬ物語の登場人物であるときには、どこかに血の臭いがするのである。
 オリジナルの物語の世界観は、キャラクターの属性には回収できない。キャラクターは間物語的存在者だからだ。しかし、オリジナルの世界観は、妄想において別の物語に移し変えられた後でも、キャラクターがなんとはなしに纏う雰囲気として、影響を保ち続けるのである。重い物語を出自にもつキャラクターは、軽薄な性格であっても重い雰囲気を纏うであろう。また、明るい物語を出自にもつキャラクターは、陰気な性格であっても明るい雰囲気を纏うであろう。名作を出自にもつキャラクターは威厳を、駄作を出自にもつキャラクターは俗っぽさを纏うであろう。
 キャラクターの出自、つまりオリジナルの物語の世界観は、キャラクターの雰囲気を構成する。そして、その働きは属性には還元できないのである。
 ちなみに、この論点は、「オタクにとって一次創作と二次創作の区別は決定的である」という私の旧来からの主張に直結している。
 (ここの議論は、しろねこま氏(「S猫」)との対話に発想の核心を負っている。ありがとうございました。)

キャラクターの系統

 キャラクターの属性にしろ偶然的性質にしろ、ある一個のキャラクターを取り出して語ることができる要素である。それらとは別に、あるキャラクターを他のキャラクターとの関係性にそくして位置づけることができる。ここで重視したいのは、キャラクターの歴史的な位置づけである。
 ほとんど同じような属性で構成されたキャラクターがあったとしよう。多くの場合、それらのキャラクターを歴史的な系譜のうちに位置づけることができる。このとき、ある種のキャラクターが、原型ないしはプロトタイプの位置に置かれることになるだろう。(一つ注意を。必ずしもより古いものが原型とされるわけではない。始原と原型は異なる。たとえば、仮面ライダーの始原は旧一号であるが、原型は二号であろう。)
 原型キャラクターは、他のキャラクターにはない、独特の魅力をもつ。どちらがオリジナルでどちらがアレンジか、という区別は、キャラクターの属性にも偶然的性質にも反映されない要素である。しかし、そうであるにもかかわらず、我々は原型とみなしたキャラクターたちを、とりわけ重要なものとするのである。
 『To Heart』や『新世紀エヴァンゲリオン』といった作品の重要性は、一つには、原型キャラクターを数多く生み出した点に存する。神岸あかり、マルチ、あるいは綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーは、みな原型と呼ぶにふさわしいキャラクターである。それ以後の別作品に、あかり系統のキャラクターや綾波系統のキャラクターが多数登場した。それらのうちには、『To Heart』や『エヴァ』よりも優れた作品も少なくなかったし、総合的にみてより魅力的な造形のキャラクターもいた。しかし、そうであるにもかかわらず、やはりマルチやアスカは別格なのである。
 これらのキャラクターのもつ独特の魅力は、属性にも偶然的性質にも還元できない。ただ歴史のみが、その力の由来を説明しうるのである。
 さて、逆に言えば、原型ではないキャラクターは「あかり系統」「綾波系統」といった規定をうけることになる。これはすなわち、そのキャラクターがどんなものであるかが、他のキャラクターとの関係性にそくして規定されていることになる。この規定、つまりは系統を、属性と混同してはならないことに注意したい。「涼宮ハルヒ性」という属性はありえない、とすでに述べておいた。「なになに系統」という規定は、あくまで歴史的な位置づけに基づくキャラクター相互の関係を表現したものであり、属性とは独立に考えるべきものだ。属性がいろいろと異なるキャラクターどうしのあいだに歴史的な影響関係を見て取ることができるといった事態は、別に珍しいものではないだろう。このあたり混同されがちなので注意を喚起しておく。

キャラクターの様態

 これまで属性、出自、系統と、キャラクターの構造を規定する要素を検討してきた。これらの三要素は、いわば客観的なものである。同一のキャラクターを扱っているかぎり、どのオタクにとっても同じ規定として把握されるのである。
 さて、それらとは別に、個々のオタクによって異なるキャラクターの主観的な規定がある。単純なことだ。キャラクターはオタクにたいして、萌えるものとしてとか、燃えるものとしてとか、萎えるものとしてとか、とにかくなんらかの価値評価を含んだ様態をもって現れてくるのである。
 価値的な様態を伴わないキャラクターはない。様態を伴わないキャラクターは、そもそもキャラクターとして認知されることがない。我々はただ物語を読み流し、そのキャラクターに注意を払うことはないだろうから。我々があるキャラクターに注意を向けるときには、つねにすでに、そのキャラクターはなんらかの様態を伴って現出しているのである。
 もちろん、あるキャラクターに伴う様態は、各々のオタクによって異なるであろう。しかし、様態を抜きにしたキャラクターはありえないのであるからして、様態を広義のキャラクターの規定に含めることができるだろう。様態は、キャラクターの主観的な規定なのである。
 もはや明白なことであるが、このような様態がどのようなものであるかは、属性、出自、系統から説明し尽くすことはできない。様態はオタクの主観的な思い入れと密接に連関しているからだ。初めてプレイした恋愛シミュレーションゲームの初めてクリアしたキャラクターに、オタクが強い思い入れをもつことがある。この思い入れは、キャラクターの属性にも出自にも系統にも無関係である。しかし、彼(女)は、この思い入れを抜きにして、そのキャラクターを思い浮かべることはできない。こういったかたちで、様態はキャラクターを構成する独立の要素をなすのである。
 ついでに注意しておけば、様態が主観的であるということは、それにかんする対話や討論の不可能性を意味しはしない。これについてはかつて萌えなどについて論じたさいに強調しておいたので、ここでは指摘するだけにとどめる。

おわりに

 ある一個のキャラクターは、少なくとも以上の四つの層が積み重なった複層的な構造体として存在していると思われる。キャラクターを属性の集合としてのみ考える立場では、取り落とす要素が出てしまうわけだ。そのような立場は、キャラクター論としては不十分なのである。
 キャラクターを論じるさいには、文脈に応じて四つの層のそれぞれに適切な目配りをすることが大切であると言えよう。どれかに偏ったキャラクターの語りは、どこかに「わかってない」感がしてしまうものなのだ。
 四層を整理すると以下のようになるだろうか。
 キャラクターの属性は、キャラクターの本質を構成する。
 キャラクターの出自は、キャラクターとオリジナルの物語について語る。
 キャラクターの系統は、キャラクターを他のキャラクターと関係づける。
 キャラクターの様態は、キャラクターとオタクとの関係を表現する。
 他にも重要な要素があるかもしれない。ご指摘いただければ幸いである。

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