キャラ立ちと作者ワールド

 オタク的な配慮はキャラクターに向かう、としばしば言われる。オタクにとってはキャラの立ちがもっとも重要な契機だ、と私もかつて述べた。
 しかし、これはあくまでオタク的視聴という前提のもとでの議論、それも一般論である。その前提を外せば、キャラの立ちは唯一絶対の基準ではない。キャラの立ちを無視すべき場合もたしかにあるのだ。
 このあたりの事情が複雑に交錯する局面を、ギャグまんがに見て取ることが、本稿の目的である。

 そもそもキャラの立ちとはなにか。ある物語が一定程度語られると、そこに登場するキャラクターの本質が明らかになってくる。このとき、その物語のさらなる展開は、キャラクターの本質のありようによって、一定程度の規制をうけることになる。簡単に言えば、そのキャラがそんなことをするはずがないので、そんな展開はありえない、という縛りがかかるのである。
 キャラの立ちがより強くなると、キャラが転がりはじめる。この段階では、もはや物語の展開に規制がかかるだけではない。このキャラとあのキャラが絡めば、かならずこうなるはずだ、というように、方向性が積極的に規定されるまでに至るのである。
 このような縛りは、受け手だけでなく、作者にも影響を与えるだろう。キャラの立ち方、キャラの転がりに反した展開は、キャラの破綻を、ひいては物語の破綻を招くことを意味するからだ。立ったキャラクターは、虚構の存在者であるが、自律的なのである。

 ところが、ここに例外がある。笑いである。
 これまでの物語からはどうあっても読み取れないような振る舞いをキャラにさせることで、笑いを生むことができる。このとき、我々は、キャラの破綻を許容するであろう。笑いの面白さが、キャラの立ちやキャラの転がりを超える説得力を生む場合には、キャラクターの自律性は廃棄されうるのだ。
 このときは、作者自身の笑いのセンスが全面に出てくることになる。作者ワールドが現出するのである。

 ここで、物語の展開にかんして、二つの論理が確認されたことになる。
 キャラを立てて転がすという論理。
 作者ワールドがキャラを破綻させていくという論理。
 以下、ギャグまんがの実例にそくして、これら二つの論理の関係を確認していこう。

 木村太彦の『瀬戸の花嫁』がアニメ化されて一定の成功を収めた。この作品にかんしては、原作版よりもアニメ版のほうがよく出来ている。『瀬戸の花嫁』は基本的に萌えコメである。萌えにおいては、キャラの立ちと転がりは必須であろう。この点にかんして、アニメ版は原作版よりも上なのだ。原作版では、キャラの立ちが弱いのである。
 私見では、このあたりに木村太彦という漫画家の特徴が現れている。彼はキャラを転がすタイプではなく、いったん立てたキャラをどんどん破綻させていき、作者ワールドを展開させるタイプの作家なのではないか。
 私にとっての木村の最高傑作は『余の名はズシオ』である。『ズシオ』においては、上に述べたような意味でのキャラの立ちはない。すべてが出鱈目であり、これまでのキャラの描写に訴えて先の展開を予想することなど不可能である。すべてが木村太彦ワールドに染め上げられていて、キャラはそのなかで暴走するのである。そして、それでいいのだ。それが木村太彦の笑いなのだから。
 そこから見ると、原作版『瀬戸の花嫁』はいささか窮屈な感じがする。萌えコメとしてキャラの大幅な破綻が許されないがゆえに、木村太彦本来の暴走する笑いが抑えられてしまっている。それがどうにももどかしい。そのため、キャラが立ちきらない感じも生まれてしまう。
 ところが、アニメスタッフという他者の手によって、一から萌えコメとして再構成されたアニメ版からは、このあたりの窮屈さがすっかり抜けている。自然にキャラが立ち、転がっている。それゆえに、私は単体の作品としての出来は、こちらのほうが上だ、と判定するのである。

 久米田康治『さよなら絶望先生』は、この点、ベテランのバランス感覚が素晴らしい。
 久米田康治の芸風は、基本的には、久米田ワールドがネタによってキャラを破綻させていく、という方向のものである。キャラはまずもってネタのために存在するのであり、キャラの自律性は徹底的に制御されるのが、久米田節である。
 しかしながら、久米田の上手さは、そのなかでもきちんとキャラを立てていくところにある。『絶望先生』のキャラは、まずは記号化された役割を担わされて登場し、毎回笑いのためにその規定をも壊されていく。いくのであるが、回を重ねるうちに、各キャラの奥行きとか、キャラ相互の相関関係とかが、薄ぼんやりと浮かび上がってくる。あれほどエキセントリックな造形なキャラばかりであるにもかかわらず、だ。そのため、作者の色が前面に押し出されていつつも、同時にキャラクターを目指した萌え語りが容易な作品にもなっている。このあたり、さすがだなあ、と感嘆してしまう。

 田丸浩史『ラブやん』の最近の展開は面白い。
 『ラブやん』の始まりのカズフサの造形は、ロリ、オタ、プー三拍子揃ったダメ人間の典型であった。典型である、ということは、個性の欠如を意味する。つまり、当初のカズフサは、ダメ人間一般を代表するネタキャラだったのだ。ところが、連載が続くにつれて、それが変化してきた。毎回のネタの支配に抵抗するように、キャラが立ってきて、自律的な転がりかたを見せるようになってきたのである。現在のカズフサは、もはや典型キャラではない。一人の個性あるダメ人間として、きっちりとキャラが立っている。そして、彼のイタさの実在感も、それに比例して、たんなるネタの域を超えて増していっている。
 このようなノリは、これまでの田丸作品ではあまり見られなかったものではないか。従来の作品は、田丸節の炸裂、つまりは作者ワールドの展開に染め上げられているものがほとんどだったと思われる。
 『ラブやん』は田丸の連載のなかで最も長く続いている。さらには、この作品、いわゆるサザエさん時空を採用していない。そこからくるキャラの描写の蓄積が、田丸浩史というギャグ漫画家の新しい領域を開きつつあるのではないか。崇山庵子(名前からして当初はネタキャラだった)の結婚話などを読みながら、私はそんなふうに思ったりするのである。

 芸風の切り替わり、という点では、桜井のりおに言及しておくべきだろう。
 前作『子供学級』では、彼女は作者ワールド展開系の芸風を目指していたように思われる。そこでは、ネタによってキャラを破綻させることも普通に行われていた。
 しかし、『みつどもえ』で、桜井のりおは、キャラを立てて転がす、という新たな芸風に覚醒したようだ。そして、萌えに親和性が高いこの芸風が存外に桜井に合っていことから生まれた現在の人気っぷりは、私がいまさら紹介するまでもないだろう。
 ただ、私の見るところでは、桜井のりおには、キャラの転がしと作者ワールドの展開との間の適切なバランスを未だに測りかねているところがある。ここがカチッと固まると、中堅作家へとステップアップするんじゃないかなあ、と思っているのだが、どうだろうか。
 (追記。桜井のりおはその後、完全にキャラを転がす技術に開眼し、チャンピオンの看板作家へと成長した。そのうえ、『みつどもえ』はアニメ化されるに至った。私の予想どおりである。)

 さしあたりこんなところであろうか。
 以上の議論で前提にした物語の展開の論理にかんする二元論は、もちろん絶対的な軸ではない。諸々の作品の読解に一定の見通しを与えるための理念的な枠組みにすぎない。
 ただし、本稿冒頭で述べたように、オタク論の文脈では、キャラの立ちに比重が置かれる傾向が強い。そのあたりをもう少し繊細に見積もってみよう、というのが、本稿の目的であった。その目的にかぎって言えば、この二元論はある程度その有効性を示しえたのではないだろうか。

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