COCO『今日の早川さん』からなにを学ぶか

我々はなにについて語り合うべきか

 学会や論壇というと大げさであるが、一定のことがらについて生産的に語り合うためには、それなりの権威をもった共同体があったほうがいい、ということがある。理由はいくつか考えられるのだが、ひとつには、扱うべき問題とそうでない問題をあらかじめきちんと決めてしまえる、ということを指摘できるだろう。
 なにごとも疑いうるとかすべては仮説であるとか言った主張は一見知的でかっこよく思える。しかし、たとえば、永久機関を発明しましたとか、相対性理論に欠陥を発見しましたとかいった勘違い素人さんたちの訴えをいちいちまともに取り上げてそのつど検討していては、学問の進歩は望めないのであって、そういう主張を門前払いしたりトンデモ発表部屋に隔離したりするシステムは必要不可欠なのである。もちろん権威主義の嫌な側面はあるにしても、だ。
 さて、オタク関連領域にかんしては、もちろん学会も論壇もない。オタク論をお書きになっているセンセイ方はいらっしゃるが、それこそトンデモなことばかり論じられている場合が多いので、権威はあまりない。そのあたり、自由でいいといえばそうである。私もそこに学会や論壇的な権威性をもちこむべきだと主張しはしない。しかし、ここにひとつの問題が生じていることには気づいておくべきであろう。
 まともに論じるべきではない問題をみんなで一所懸命に語り合う、という事態が起こってしまっているように思えるのだ。

オタク界隈の擬似問題いろいろ

 ネットのオタク関連領域周辺の言説を想起されたい。そこここで話題がループしていることに気づくだろう。
 同じような問いが同じような仕方で提起され同じような仕方で対話が続いたり荒れたりして、そのうち飽きられて終息する。しばらくして、また同じような問いが同じような仕方で提起され…以下繰り返し。そこになんらの内容的な進歩も発展もない場合のなんと多いことか。
 無断リンク禁止問題とか、剽窃と創造的模倣の境界問題とか、ライトノベルやら何やらにかんする様々な定義問題とかいったものが例として挙げられるだろう。どれも各所で繰り返し話題にされるが、基本的には、かつてどこかで述べられた主張、かつてどこかで交わされた対話が、なんの工夫もなしに反復されているだけなのである。
 このような事態は不毛のように思える。では、そうであるにもかかわらず、どうして起きてしまうのだろうか。

無断リンク禁止問題の隠された動機

 ここで私は、問題が論じられるさいの隠された動機について着目することを提案したい。それを勘案すると、不毛に思える事態がなぜ起こるかが理解できるし、また、その事態が一定の有効な機能を果たしていることすら確認できると思われるのである。
 いやまあ、それほど難しい話ではない。
 無断リンク禁止問題を考えてみよう。私も、無断リンク禁止とか言ってしまう人たちはものがわかっていないなあ、とは思う。しかし、同時に、それほど繰り返し騒ぎたてて排撃するほどのことでもないだろう、とも思うわけだ。そう思って眺めてみると、リンクの自由性を必要以上に攻撃的に強調する人のうちに、「正論の側に与することで社会的な承認を得たい」という無意識の欲望を感じてしまったりするのである。
 そのような動機に支配されると、人は凡庸な正義の虜となりがちだ。同様のノリを感じるのが、新聞の投書欄に繰り返し登場する「電車の中で化粧する人にたいする苦言」である。これもまた、誰にも文句がつけようがない凡庸な正論を振りかざすことで、反論のリスクを避けつつ社会的承認を得ようとする、いささかズルっこい欲望の発露である場合が多いものである。
 別の事例では、パクリ問題にたいする大仰すぎる反応などにも、この臭いが感じられることがある。
 もちろん、きちんと問題に取り組んでいる方も少なからずいるだろう。それは否定しない。しかし、全体的な傾向ないしは雰囲気は、このように説明できるのではないか。

定義論争のみかけの不毛さ

 さて、ここで、ライトノベル定義問題に眼を向けてみたい。
 そもそも一般的に、日常的に使う言葉の定義にかんして論争することは不毛である。我々の使っている概念の多くは、明確な定義など不可能なものである。それでもきちんと日常的概念は使用できるのであり、それでいいのだ。それを、なぜあえて定義しようとするのだろうか。税金をとったり刑罰を与えたりするような政治的な場面以外では、定義を厳格に求めることにあまり意味はないのだ。
 それにもかかわらず、我々オタクは定義について論争するのが大好きである。放っておけば、ライトノベルの定義以外にも、スーパーロボットの定義、ヤンデレの定義、寝取られの定義等々を、飽きもせず論争しつづけるであろう。どうしてこれほどまでに定義論争は愛されるのだろうか。愛されるからには理由があるはずだ。

定義論争の隠された動機

 ここでも、問題が論じられるさいの隠された動機に着目してみたい。私の見るところ、とりわけオタク的な領域にかんする定義論争の魅力は、共同で好きなものリストをつくる喜びにある。なんらかの定義を提案するさいには、かならずそれを指示する実例を付与することになる。実は、その実例の提示こそが重要なのではないか。
 たとえばライトノベルの定義をかくかくとしたとする。その定義には、自分の考える典型的ライトノベルのリストが必ず付与されるであろう。ヤンデレの定義を提案するときには、自分の考える典型的ヤンデレキャラのリストが伴うであろう。そして、その定義にたいする反論は、かならず、そのリストからの項の除外の提案、ないしは、そのリストには挙がっていない作品ないしはキャラクターの提示によってなされる。
 ここでなされる対話は、実のところ、定義を練り上げる作業ではない。趣味を同じくするみんなで寄り集まって、各々が好きな作品や好きなキャラを、ボクこれ好きなんだ、キミは知ってるかい、これだけは知っとけ、とリストアップしていく、という作業なのである。
 オタク的な対話のうちで、そのような共同リストづくりほど楽しいものはない。何度やっても面白い。また、定義論争そのものは不毛であっても、それにともなう共同リストづくりの楽しさは損なわれないであろう。だからこそ、我々オタクは、定義の主張部分は焼きなおしでつまらないものであると気づいていても、派閥の分類が恣意的なものであると気づいていても、気にせず定義論争を繰り返そうとするのである。
 つまり、定義論争は、実はたんなる外皮にすぎない。そこで実際に行われているのは、共同リストの練り上げ作業なのである。
 繰り返される定義論争にたいして正面から批判的解決を与えようとする試みも少なくないが、それらの努力は思ったほどの成果を挙げられていないように私には思われる。それは、たんなる外皮の批判に囚われすぎてしまっているからなのである。

定義論争という外皮の功罪

 先に、定義論争はそもそも不毛である、とした。しかし、実際の定義論争の核心が共同リストの練り上げ作業にあるとするならば、それはもはや不毛なものではないことになる。それは、趣味としてのオタクにとって核心を占めうるような、価値ある営みなのだから。
 しかしながら、いまだ問題は残る。共同リストの練り上げ作業に定義論争という外皮を被せることに意味はあるのかどうか、ということである。
 少なくとも以下のようには言えるかもしれない。たんに緩い縛りで共同リストづくりをしよう、と言っても、たいして人は集まらないし、そもそもあまり面白くないだろう。やはり共同作業には大義が必要なのだ。実際はたんなるお題目にすぎなくとも、あたかも厳密な定義を求めているかのように振舞うことは、コミュニケーションを盛り上げるためにたいへんに有効なのである。
 ただし、強調すべきは、定義論争がたんなる外皮、お題目でしかない、ということに、やはりどこかで気づいていないといけない、ということだ。
 そうでないと、さまざまな問題が生じてしまう。たとえば、定義論争の形式に嵌りこむことで、簡単な問題が答えにくくなってしまうことがある。「田中芳樹『銀河英雄伝説』はライトノベルかどうか」と問われたら、なかなか答えるのは難しい。しかし、それはそもそもの問いの立て方が悪いだけである。「『銀英伝』のキャラ造形の薄さや展開のご都合主義は許容範囲内かどうか」とか、「『銀英伝』はSFの古典を知らなくともさっくり読めるかどうか」とかと問えば、YesにしろNoにしろ、たいへんに答えやすいであろう。そして、実のところ、ライトノベルかどうか、という問いで訊きたかったことは、これらのどれかである場合が多いのである。
 また、非オタクの評論家たちが興じるようなレベルの低い文学論ごっこに容易に巻き込まれてしまう危険性も指摘できるかもしれない。

文学ジャンルの定義問題を解消する究極的提案

 さて、ここまでの話はすべて前フリにすぎない。
 以上のように定義論争を解体するのはいいとしよう。しかし、こと文学にかんしては、それでもなお一定のジャンルの了解は有効であり必要であるように思われる。それをどう確保したらよいのだろうか。
 これにかんして、私はひとつの提案を行いたい。
 COCO『今日の早川さん』において、登場人物は以下のように紹介されている。

 SF者の早川さん。
 ホラーマニアの帆掛さん。
 純文学読みの岩波さん。
 ライトノベルファンの富士見さん。
 レア本好きの国生さん。

 これに以下のような論理学的換位操作を加えてみたらどうだろうか。

 SFとは、早川さんが愛好する類の文学ジャンルである。
 ホラーとは、帆掛さんが愛好する類の文学ジャンルである。
 純文学とは、岩波さんが愛好する類の文学ジャンルである。
 ライトノベルとは、富士見さんが愛好する類の文学ジャンルである。
 レア本とは、国生さんが愛好する類の文学ジャンルである。

 『今日の早川さん』を一読してさえいれば、定義にかんする諸々の困難をいっさい排除したうえで、我々は直観的にこれらのジャンルの性格を把握することができる。
 そして、たいがいの場合には、それ以上のことは必要ないのである。

ページ上部へ