メディアの物理的特性と娯楽作品創作方法論の関係について

 いやまあそんなに大層な話ではないのだが。

 皆さんが本を読むときを思い出していただきたい。読みかけた部分のところに栞を挟むだろう。このとき面白いのは、栞を挟んだあとに本を閉じ、上部つまりは天のほうを眺めてみると、自分がその本の何割を読んだがが一目瞭然にわかる、ということである。
 今度は、文庫本を手にもって読んでいるときを思い出していただきたい。今読んでいるところが全体のどれくらいの位置を占めるのかを、無意識的にであれ、触覚によってつねに確認しながら読んでいるのではないか。
 これらの事態は、本というメディアのもつ独特の特性を反映したものと言えるだろう。未だアクセスしていない情報にかんして、その残量が、紙の厚みという物理的な量によって直観的に認識可能なのである。

 情報量というと大げさにすぎるかもしれない。本サイトの関心は娯楽作品にあるわけだから、つまるところ私が指摘したいことは、小説本と漫画本は、つねに同時にお話の残りがどれくらいあるかをわかりつつ読むことができる、ということである。

 さて、言うまでもなく、この特徴は他のメディアにはないものである。小説本と漫画本だけがもっている特徴なのだ。このリストに追加するとすれば、カセットテープとレコード盤であろうか。これらも残量が物理的量として容易に知覚できるものだった。しかし、両方とももはや過去のものである。

 ただまあそうはいっても、テレビアニメや映画にかんしては、だいたいの残量はなんとなくわかる、と言っていいのかもしれない。
 テレビアニメは三十分という時間から情報量が決まっている。つまらないアニメは長く感じ面白いアニメは短く感じるから、今観ているところがどれくらいなのかは、原理的には時計を眺めてみないかぎりわからないのかもしれないが、まあそこまで厳密に考えずともよいだろう。
 映画にかんしても、だいたい二時間前後という一般的な傾向はあるので、テレビアニメに準じて考えることができるだろう。

 問題は、コンピュータゲームである。

 ストーリー要素を含むゲームがあるとする。プレイ中に、お話の残りがどれくらいなのかを、どうやって知ればいいのだろうか。本における紙の厚みのような物理的な手がかりはない。テレビアニメや映画のような、時間の長さの枠もない。システムにもよるのだが、一般にゲームにおいては、お話そのものに内在する論理以外に、お話の残量を知る手がかりがないのだ。

 ここで話の角度を変えてみたい。我々が娯楽作品を楽しむ場合に、どのようなことをやっているのか、と問うてみよう。
 ここで着目したいのは、ストーリーの先読みが、楽しさを味わうさいに重要な役割を果たしている、ということだ。

 すでにそこここで強調したことであるが、娯楽作品には、その作品が属している物語のジャンルを明示したうえで、そのジャンルの要求する黄金パターンを踏まえて展開するものが多い。新しい要素がなければならないことはもちろんであるが、それは、黄金パターンを踏まえたうえで、その枠内で追求されるのである。失った宝は取り戻される。別れたふたりは再びめぐり合う。栄えた悪は滅びる。助さん、格さん、こらしめておやりなさい。こういった黄金パターン、お約束を押さえてこその娯楽作品である。まあ、すべてがそうとは言えないにしても、多くはそうであろう。

 さて、本稿で注目したいのは、作品そのものにパターン構造がある、ということではない。娯楽作品を楽しむためには、その作品のパターンがどのようなものかを、受け手が鑑賞途中に認知できなければならないこと、これを強調したいのである。
 黄金パターンやお約束は、作品の受け手がそれを手がかりに物語を先読みし、期待をし、その期待を前提にしたカタルシスを得るためにあるものだ。印籠が出るぞ出るぞと期待しているところで印籠が出るから面白いのである。合体するぞするぞと期待しているところで合体するから面白いのである。もちろん、期待を裏切る面白さもありうる。しかし、期待を裏切るためには、そもそもの期待がなければならない。その期待を支えるのが、受け手による黄金パターンの認知の可能性なのである。
 とりわけお話の締めのところで、この要求は重要になってくる。いま目の前で展開されている立ち回りが、通過点たる三下相手のものなのか、ラストを飾るボス相手のものなのか、受け手にとって判明でなければならない、というわけだ。

 というわけで、ゲームに戻ろう。
 もちろん、ゲームの面白さは、上述のような物語性だけに限定されるわけではない。しかし、あえて物語を楽しませる娯楽作品という契機に着目するならば、ゲームには、たしかに一つの困難があると思われる。
 それは、ゲーム中の物語の黄金パターンを、受け手すなわちゲームのプレイヤーが認知することが難しい、というものである。
 どうして難しいのか。理由は単純で、他の表現ジャンルと比較すると、黄金パターンを読み取るための手がかりが少ないのである。
 もうおわかりだろう。今現在読みつつあるお話の残りがどれくらいなのか、という情報は、そのお話がこれからどのような黄金パターンのもとに展開していくのか、ということを読み取るための重要な手がかりをなす。ところが、すでに指摘したように、小説やアニメや映画とは異なり、ゲームではお話の残りがどれくらいなのかが非常にわかりにくい。ゲームをする場合、我々は、残りの情報量が未知の状態で、お話の先読みをしなければならないのである。そのような先読みは、他の表現ジャンルの場合と比べれば、はるかに的を外しやすい。そして、読み手が的を外してしまったときには、得られるはずのカタルシスが得られなかったり、失望感が増してしまったりするのである。もちろん、システムによっては事情の違いはある。繰り返しプレイが前提のノベルゲーなどでは、二周目以降はこの問題が起こりにくい場合もあったりするとか。
 ともあれ、結論はこうだ。ゲームによって展開される物語は、娯楽作品として受け手を楽しませることが原理的に難しいところがある。

 簡単に言えば、ゲームには、物語にかんして、他の表現ジャンルにはない失望感が生まれやすい構造がある、ということだ。代表的なのは、「あれ、もう終わりなのか、がっかりだ」というヤツと、「あれ、まだ続くのか、うんざりだ」というヤツである。
 これらはたとえば小説では起こりえないないわけではない。しかし、ゲームとは違い、小説では、残り頁の量がわかるので、下手糞な作品であっても、なんとなく作者の意図する話の締めが予想できたりする。それが、がっかり感を上手くやわらげてくれたりするのだ。
 ゲームには、このようなクッションがない場合が多いので、お話の展開の下手糞さがモロに読み手の苦痛に繋がってしまいがちなのだ。
 こういうわけで、ゲームのシナリオを書くことには、小説を書くことよりも気をつけなければならない点がある、とも言えるのかもしれない。

 …ここまで読んでいただいて気づかれた方もいるかと思うのだが、以上の議論には念頭に置いている具体的な作品が一つ二つある。
 本稿の論の運びにどこか粗があるように見えるとすれば、それは、具体的な悪口を力技で一般論にもってきたからかもしれない。
 いやね、そんなに面白くない、というわけではなかったのだが、「こんな小者がラスボスのはずない、絶対背後にラスボスがいる」と思っていたら、それが最終決戦だったりさ。「これは絶対エンディングで一ひねりあるだろうよ、だってこれじゃ尻すぼみにすぎるぜ」と思っていたら、そのまま「タイトル画面に戻る前にシステムデータをセーブしますか」って表示が出ちゃったりさ。キャラの魅力だけで古参オタクを満足させられると思うんじゃねえ。角が立つので、ゲームの固有名は挙げないけれどもね。

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