義手イメージからの属性論

 たびたび強調しているのだが、私は属性にかんしていわば唯名論的な立場を採る。個々別々のキャラクターへの愛好こそが第一にあるべきであって、キャラクターを一般的な観点から語る属性は二次的なものにすぎない。属性は、それぞれ個性をもつキャラクターの集合に便宜的につけられたたんなる名前なのである。属性の組み合わせでキャラクターを構成しようとする立場は、端的に転倒しているのだ。
 もちろん、眼鏡っ娘の一般的条件を考察することで、個々の眼鏡っ娘の理解が深まったりするというようなことを否定するわけではない。個々のキャラクターは複雑な含みをもつ。その理解にとって、属性の考察は重要な手がかりを与えてくれることはたしかだ。しかし、だからといって、キャラクターが属性に優先する、という基本的な位置づけは揺らがないのである。

 ちょっと愚痴を垂れ流しておけば、ツンデレ概念が発明されたあたりから、ワンフレーズキャラ批評が市民権を得てしまい、私としては苦々しいかぎりである。まあ、すでに多数の作品を観てきたオタクが省略語法で語るのは別にかまわない、というか、仕方がない。しかし、つい最近オタクを自覚しはじめたような若い子が属性ばかりを振りかざしてキャラクターを語るのは、あんまり感心しない。属性抜きでキャラクターを心底好きになる経験を若いうちにしておかないと、薄っぺらいオタクにしかなれないんじゃないか、と心配しているのである。殴り合い取っ組み合いしないで型ばっかりやっている感じでさ。
 まあ、杞憂かもしれないし結局他人事なので、これはいい。

 本題に入りたい。
 属性を第一のものと考える立場の問題点はいろいろと指摘してきた。本稿ではこれを、これまであまり強調してこなかった角度から考察してみたい。すなわち、偏見や差別の問題と属性のかかわりを簡単に確認しておきたいのである。

 ヒーローにかんしても一般的な観点からその論理を語ることができる。たとえば以下のようなものだ。
 ヒーローは常人とは異なる力を発揮するわけだが、そのような力の由来についてはいくつかの形式がある。実は誰々の血を引いていたのだ、といった、貴種漂流譚的なものもある。血を血で洗う修練の果てに身につけました、というようなものもある。
 ここで注目したいのは、なんらかの喪失と引き換えに力を手に入れる形式のお話である。常人とは異なる力を得る代わりに、常人がもっているはずのなにかを失うのだ。等価交換というわけだ。
 さて、このとき、身体の一部の喪失というパターンの多さに気づく。それも片腕の喪失が多い。さらには、喪失した片腕の代わりに義手がつき、その義手がヒーローの超常力を担う、というのが黄金パターンである。微妙なものも含め思いつくままに挙げれば、ライダーマン、鋼の錬金術師、紅衣の公子コルム、からくりサーカス、寄生獣、コブラ、うわゴッドサイダーの法粛とか思い出しちゃったよ脇キャラだけど、懐かしのゾンビハンター(平井和正ね)とか、トライガンもそうかな、吸血殲鬼ヴェドゴニアにもこのネタはあった、広く考えれば百鬼丸も入るか、等々。
 隻腕に義手ヒーローは、たしかにひとつの燃えヒーローの属性をなしているわけだ。

 以上のような議論は、それなりに説得力をもつだろう。しかし、ここには注意しなければならない点がある。
 義手ヒーローを属性として捉えるさいに、物語のうちで、隻腕であることがある種の喪失の象徴として機能しうることを指摘した。重要なことは、このことから、隻腕であることがそのものとして否定的な価値をもつと考えてはならない、ということである。
 これは、逆の例を考えてみればわかる。頭に猫耳がないことは、一般に欠損を意味しない。しかし、ドラえもんにとってそれがひとつの欠損であることを、我々は理解できる。それは、我々がドラえもんの物語を知っているからだ。物語が属性に欠損という意味を与えるのであって、属性そのもの(ここでは猫耳なし属性)に否定的な価値が帰属しているのではないことが、理解できるだろう。
 同様に、隻腕が欠損として機能するのは、あくまで特定の物語の文脈において、そう位置づけられるからにすぎない。別の文脈では、隻腕であることがなんらの否定的な価値づけをなされない場合も多々ありうるのである。そして、当然のことながら、我々の生活する現実社会の価値づけは、基本的にそのようなものであるべきであろう。
 つまり、こういうことだ。隻腕であることに欠損や障害といった否定的な価値を直接的に見て取ってしまう思考を、我々は通常「偏見」と呼ぶのであり、これは望ましくないものなのである。

 一般化して整理すると、こういうことだ。
 ある種のヒーローの形式性に、共通する論理を見出し、属性として考察することができる。
 しかるに、ここで、ヒーローの形式性を、属性から由来するものと考えるべきではない。あくまで個々別々のヒーローの物語がまずあって、それを理解する手がかりとして、属性は構成されるのだから。
 一方、属性を第一のものと誤認する立場は、物語パターンに由来する属性イメージを、属性そのものがもつ本質的規定と取り違えがちだ。しかるに、SFチックな属性やファンタジックな属性ならともかく、多くの属性は我々が日常的に使う言葉と密接に結びついている。
 このとき、固定化された属性イメージは、知らず知らずのうちに我々を偏見に導いてしまうことがあるのだ。
 このような場合には、現実と妄想の区別を持ち込んでの免責は効かないので注意が必要である。また、この手の議論にたいして、思慮の足りない人は脊髄反射で「言葉狩りだ」的な反発をしてしまったりするのだが、それほど事態は単純ではない。我々は属性の位置づけについて、十分に慎重でなければならないのである。

 さて、ここから萌え属性に目を転じてみよう。
 議論を構成しやすいので、燃えにおける隻腕イメージを例に挙げたが、以上のような問題が露骨に出るのは、萌えにおけるジェンダーにかかわる偏見であるのはもはや言うまでもないだろう。このあたりはポルノグラフィの問題も絡むので、なかなか詰めにくいのではあるが。
 しばしば論者たちが、オタクの萌え属性はステロタイプな女性像男性像を再生産してしまっている、という批判をする。これは、半分はオタクにたいする無理解に由来するが、半分は当たっている。
 個々別々の物語における個々別々のキャラクターそのものを把握することなしに属性だけを振りかざす立場は、たんなる固定観念の反復と区別がつかなくなりかねない。属性から偏見へ気づかないうちに転がり落ちている、という事態は、実は十分にありうるオタクの落とし穴なのである。

 ある作品中の要素が本来の意図とは異なるかたちで社会的な意味(ここでは否定的な意味)を帯びてしまう、という事態は、別にオタク的な領域だけではなく、さまざまな場面で現れるものである。その意味では、あまりオタク論の本道にはかかわらない論点なので、以上のような問題は、これまであまり指摘してはこなかった。しかし、オタク特有の属性という道具立てが、そのような問題を導きやすい性格をもつことは認識しておくべきであろう。私が反属性主義を採る理由のひとつには、以上のような危険性をなんとなく回避しようとする意図もあるわけだ。
 もののわかったオタク同士で話しているときには、このへんの危険を回避する感覚は暗黙のうちに了解済みである場合が多いのかもしれないが、非オタの人たちとの対話とか、一般的な倫理観とオタク的営みのすり合わせとかいったことを考えると、こうした問題を一度確認しておくのも悪くはないのではないだろうか。

 いくつか補足をしておきたい。
 先ほど、「我々は属性の位置づけについて、十分に慎重でなければならない」と述べた。このことは、属性にかんする特定の表現の公的規制あるいは業界の自主規制を正当化することを、まったく意図していない。以上の議論は、あくまで個々のオタクの道徳的責務にかんするものである。
 ついでにもう一点。萌え属性にかんする差別について、「オタクの萌え属性はステロタイプな女性像男性像を再生産してしまっている」という議論にも一理ある、と述べた。ここで、「女性像」ではなく「女性像男性像」とした点に注意していただきたい。オタク的表現の問題を考える場合、無意識のうちにジェンダー・バイアスがかかってしまっていることがある。オタクということで、異性愛男性オタクだけしか考えられていなかったりするのだ。これは、それ自体として差別的な事態である。女性オタクや腐女子等々の属性表現をも射程に含めて、統一的に問題は考えられるべきであろう。
 最後に、以上の話をすべて踏まえたうで、それでもなお、差別や偏見を弄ぶことが我々にとってときにきわめて楽しいものである、ということを指摘しておきたい。この快楽は、下品で低俗で猥雑な文化としてのオタクの底流に確実に存在している。このいかがわしくてうしろめたい快楽にたいする感受性なしの差別批判偏見批判は、人の心に響かない陳腐なお説教に終わるであろう。

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