『超獣機神ダンクーガ』にみるスーパーロボットの合体

0 はじめに

 『超獣機神ダンクーガ』が好きだった。いや、好きである。この辺の曖昧なところが、本稿の出発点にある。
 私のオタク魂にとって、80年代ロボットアニメはかなり重要な位置を占めている。そのうちでも別格に好きなのがダンクーガである。それで、最近DVD箱を買って、見直したわけだ。そうすると、つくりがけっこう微妙なことに気づくんだよな。これのどこに今でも揺るがない「ダンクーガ最強」の信念を私に植えつける力があったのか不思議になるほどに。
 考えてみれば、これは80年代ロボットアニメ全般に当てはまるのかもしれない。どう考えても穴だらけで雑なのに、なぜか魅力があるのだ。
 このような思い入れをたんにオッサンのノスタルジーとして片付けてしまってはつまらない。ということで、『超獣機神ダンクーガ』の今でも色褪せない魅力のうち、とくに一点を取り上げ、理論的に考察してみることにしたい。

1 なぜ合体するのか

 まず、単刀直入に問おう。スーパーロボットはなぜよく合体するのか。
 以下のように考えられる。
 スーパーロボットがスーパーであるゆえんは、それが現実とは隔絶した論理で存在するからである。実際に存在するテクノロジーからの類推では想像もつかないような強さをもつからこそ、スーパーロボットなのだ。そこらのありものの兵器や機械の延長線上にあるようでは、スーパーさが足りなくなってしまうわけだ。
 さて、現実のテクノロジーからスーパーであることを指摘した。では、よりスーパーであるためには、どうすればよいのか。
 以下のように考えられる。すなわち、そのスーパーロボットが、実際の現実(変な言葉だ)からだけではなく、スーパーロボットが登場する虚構の世界の現実からもスーパーであればよいのだ。
 我々から見てスーパーロボットであるだけではなく、その物語のなかの登場人物から見てもスーパーロボットであるようなもの、これが真のスーパーロボットと呼ばれるにふさわしいのである。
 さて、合体しないスーパーロボットを考えてみよう。このとき、虚構のなかの日常には、常にそのロボットが存在することになる。こうなると、いかにそのロボットの能力がスーパーであっても、ある意味、スーパーさが当たり前になってしまう恐れがでてくる。スーパーロボットを含みこんだ日常の風景が物語のなかで成立してしまえば、スーパーさはどんどん薄れていってしまう。その世界のなかの通常兵器の一つになってしまうのだ。
 ここで、合体である。
 合体スーパーロボットは、合体しなければ存在しない。つまり、物語のなかにおいても、普段は存在していないわけだ。ここに合体の魅力がある。たんに強さがスーパーなだけでなく、存在そのものがあらゆる日常性を超越していること、これを示すのが合体なのだ。
 かくして、合体はスーパーロボットのスーパーさを支える一つの強力な武器となるのである。

2 凄い合体のための条件

 合体がスーパーロボットのスーパーさを高めるメカニズムを示した。
 しかし、ただ合体すればいいってもんじゃない。正しい合体をしなければならない。正しい合体の論理はいくつか考えられようが、本稿では、そのうち最も強力と思われる論理を語っていく。
 先に、合体を、物語のなかの日常にそのロボットが存在しなくなる、という観点から評価した。ここで注目すべきは、分離した時点での各パーツメカの存在性格である。
 分離したパーツメカのそれぞれが、個別でもきちんと機能するように描写されていなければならないのだ。
 分離したメカが、合体ロボットのパーツとしてしか描かれていないとしよう。このとき、合体の効果はほとんどなくなってしまう。分離したメカを見るだけで、合体したロボットが連想されてしまう。こうなると、実際の合体におけるスーパーさの効果が薄れてしまうのだ。
 ここから導かれる結論は、こうだ。合体するパーツメカの各々について、きちんと個別で独立の運用の論理を示すべきなのだ。パーツメカのキャラをきちんと立てろ、と言いかえてもよい。合体しなくても魅力的で強力なメカが、なんと合体までしてしまう、というところが出ると、スーパーロボットのスーパーさが燃え上がるわけだ。

3 ダンクーガを語る

 ここで、ダンクーガである。もうおわかりだろう。
 ダンクーガのパーツメカ、イーグルファイター、ランドライガー、ランドクーガー、ビッグモスは個別で主役を張れる魅力をもっている。なにせ単体で戦闘機ないしは戦車、ロボット、そして野獣形態の三段変型を行ってしまう。そして、分離したままガンガン戦闘し敵を墜としてしまうのだ。さらに、パーツメカそのものの独立性を、それを操る獣戦機隊の四人のキャラの立ちが増幅させる。獣戦機隊の各獣戦機は単体で絵になるのだ。
 このメカが、そのうえ合体して、ダンクーガになる。これが強くないわけないではないか。ダンクーガこそ、筆舌に尽くし難いほどのスーパーさを備えたロボットなのである。
 こう考えると、ダンクーガ登場までの、あの長すぎるほどの引きが非常によく機能していることがわかろう。初合体がなんと第十六話。ずっとパーツメカだけで戦って戦って、その個別のメカとしての魅力を描き尽くした末に、合体する。そして、我々の前に初めてその雄姿を現したダンクーガは、なんとパンチ一撃で敵を粉砕してしまうのだ。強い。強すぎる。苦戦なんかしないのだ。苦戦は分離した段階ですればよい。合体すれば、もう、一撃必殺完全粉砕。私はスーパーロボットの理想型をここに見て、感動に打ち震えたのである。

4 おわりに

 ただし、ダンクーガも物語が後半に入り、毎回予定調和的に合体するようになると、以上の議論も当てはまらなくなってくる。折角の引きの効果が失われてきてしまう。そのうえ、ダンクーガの状態で苦戦するようにもなると、なおさらだ。難しいもので、そうなると徐々に普通のスーパーロボットになっていくことになる。それはそれで仕方のないことかもしれないが、私としては、どうせならダンクーガはもっと合体しなくてもよかったのではないか、と思わないでもない。そこまでいかなくとも、少なくとも後半でも、獣戦機の個別の戦略戦術的運用を地道に描いていく必要はあったはずなのだ。
 以上、『超獣機神ダンクーガ』の魅力をメカの合体の観点から論じてみた。この作品の魅力について全体的な見通しをつけるためには、キャラクターについて語らないといけないのだが、それはまた気が向いたらということで。

ページ上部へ