ガンアクション小説を読む

 銃器の類は嫌いではないが、基本的に二次元の人間なので、玩具を揃えたり、ましてや海外に行って実銃を撃ったり、といった方向の欲求はあまりない。銃器の出てくる作品を観たり読んだりするだけだ。
 さて、しばらく忙しくて行き帰りの電車のなかで小説を読むくらいしか娯楽がなかったのだが、どうせ読むならバンバン銃を撃ってガンガン人を殺るような小説がいいなあ、というわけで、いろいろと探してみたわけのである。
 ところが、意外にこれだ、というのが見つからない。いいノワール、いいハードボイルド、いいエスピオナージュには行き当たるのだが、ガンアクションに特化した小説が見つからないのだ。
 欲しいのは、次のような作品だ。
 舞台は現代社会。SFもファンタジーもダメ。戦争はジャンル違いなので除く。物語は銃によってはじまり、銃によって終わる。最初の死体は射殺体。最後の死体も射殺体。クライマックスは銃撃戦。主人公はもちろんガンマン。それもなるべくプロフェッショナル。ガンマンの武器は基本的に愛銃のみ。相棒はいてもいいが、組織をバックにしたら失格。銃や武器や戦闘術にかんする薀蓄を多め濃いめに盛り込む。さらに、全体的に乾いた馬鹿っぽさが漂っていれば最高。
 …なのだが、これがないのだ、あまり。
 もちろん、映像作品にはある。ハリウッド系アクション映画なんかには名作良作から凡作駄作まで腐るほどある。(ちなみに私の愛するスティーヴン・セガールはガンアクションもたいへんに上手い。)しかし、小説には少ないのである。
 映像作品と異なり、小説はアクションを魅せるよりもロジックを魅せるほうが得意なジャンルである。これは確かなのだが、変な仕方でアクションよりもロジックを優先させてしまう傾向があるように思う。せっかくいい調子でアクションを盛り込んでいたのに、クライマックスで急に謎解き(というか作者の独りよがりなどんでん返し)を前面に出されたりすると、なんか拍子抜けしてしまう。これではアクション小説にならずにノワールやらハードボイルドになってしまう。それではだめだ。そういうジャンルとは求められているものがちょっと違うのだ。事件の背後の意外な真実などどうでもいい。血と硝煙の臭いを切らしてまで明かすべき謎などない。頭でっかちなおしゃべりは即刻打ち切って、主人公と殺し屋とでサシで撃ち合いさせねばならない。ゴルディアスの結び目を腰だめにしたショットガンの一発で撃ち飛ばす馬鹿っぽい爽快さが求められているのである。
 まあ文句で終わってはどうしようもないので、こういうのがいいんだ、という代表例を思い出しながら挙げてみたい。ちなみに海外翻訳モノに限定した。国内モノだと大藪春彦に触れねば客観的にも主観的にも嘘になるのだが、なんかあの珍妙な魅力を語る準備が私にできていないのだ。ネタバレは極力避けたが、肝心なところに触れざるをえないところもあったので、未読の方は注意されたい。

ギャビン・ライアル『もっとも危険なゲーム』菊地光訳、ハヤカワ書房、1976年。

 古典中の古典。先ほど述べたように、ロジックに傾斜するあまりアクションがおろそかになってしまったようにみえる小説が少なくないわけだが、この作品はまったく逆の仕掛けになっている。基本的に、陰謀に次ぐ陰謀に巻き込まれる訳アリ風主人公、背後に暗躍するイギリスとソ連のスパイ、という、典型的謎解き冒険小説のように仕立てられているので、終盤の終盤になるまではそう読んでしまう。その要素も一級品だからだ。しかし、クライマックスに至ると、実はこれがすべて壮大な前フリであることがわかる。すべての物語の流れが、北欧の凍てつく森林のただなかでの、銃による男と男の一対一の死闘になだれこんでいくのだ。この二十頁たらずの銃撃戦が、派手ではないが研ぎ澄まされていて、たいへんに素晴らしい。繰り返そう。古典中の古典である。

A・J・クィネル『燃える男』大熊栄訳、新潮文庫、1994年。

 古典とまではいかないが定番だ。酒に溺れる孤独な元傭兵クリーシィが、ふとしたことから少女のボディガードに雇われる。そして、その少女に魂を救われるのだ。ところが、マフィアに少女は誘拐され、無残にも殺されてしまう。怒りに燃える男はたったひとりで復讐を開始するのである。なんかネタバレしすぎのような気がするが、文庫の裏表紙にここまで書いてあるんで仕方がない。
 ともあれ、物語後半から復讐劇が動き出すのだが、ここからが凄い。強大な暴力と権力に守られた極悪なマフィア組織を、たったひとりの男がギタギタの皆殺しにしていくのである。あとちょっと踏み出せばギャグになってしまうレベルにまで至っている、主人公の無敵っぷりが素晴らしい。
 ついでに言うと、中盤、重傷を負った主人公が地中海の田舎の島で静養するのだが、そこでの食事がなかなかに美味しそうなんだよね。酒と麻薬が栄養の中心を占めるノワールやハードボイルドと違って、ガンアクションものは食生活が比較的健康な気がする。
 ちなみに後にシリーズ化されるが、やはり本作がいちばんいい。

スティーヴン・ハンター『極大射程』佐藤和彦訳、新潮文庫、1999年。

 こちらも定番、ヴェトナム帰りの元海兵隊最強のスナイパー、ボブ・リー・スワガーの登場である。心に深い傷を負いアーカンソーの山奥に引っ込んで暮らしていた主人公のもとに、新型のライフル弾のテストの仕事が舞い込んだ。しかし、それは謎の組織の罠であった。要人狙撃犯の汚名を着せられ逃亡する主人公。しかしもちろんやられっぱなしにはならないわけで、ライフル片手に強大な組織を相手取っての大反撃が始まるわけだ。もう失禁するほど素晴らしいのが後半の山場の大決戦である。南米某国の悪徳将軍が送り込んだ精鋭百二十名の大部隊を、スナイパーライフル一丁(と観測手役の若造一人)だけでグチョグチョの皆殺しにしていくのである。またイイのが、ヴェトナム帰りらしく、このご時勢にも頑なにボルトアクションのライフルを使うところで。やっぱスナイパーってこうじゃなきゃね。
 こちらもシリーズ化されているが、やはり本作がいちばん好きだ。

ヴィクター・ギシュラー『拳銃猿』宮内もと子訳、ハヤカワ書房、2003年。

 最近読んで面白かったのはこれだ。先に挙げた三作品とは違い、死と硝煙をめぐる描写において重厚さのかけらもないのだが、逆にそこが魅力である。撃ちまくり殺しまくりなのに馬鹿っぽくてどこかポップなのだ。
 老ギャング子飼いの殺し屋チャーリーは、ボスのお使いで、ヤバい取引に向かう。しかし事情がおかしい。どうやらボスともども罠に嵌められたようなのだ。行方不明になってしまった恩義あるボスのため、チャーリーは黒幕を追って行動を開始する…のだが、この主人公、仁義と度胸を兼ね備え、殺しの腕は超一流にもかかわらず、これまでアタマを使ったことがない。今まではボスの言うことをきちんと聞いていればそれでよかったからね。ところが組織が崩壊しボスが姿を消し、一人で敵の只中に投げ出されて、初めて自分の判断で動かねばならなくなるわけだ。この状況設定が絶妙でさ。行動はたどたどしいんだけど、とにかく強いから、周囲に敵の死体が次から次へと転がっていくわけよ。このお馬鹿なノリが最高であった。最初の銃撃戦でいきなり二丁拳銃をやり始めたときはどうしようかと思ったぜ。

 とまあ、このへんだろうか。
 こう並べてみると、ガンマンばかりだ。ガンウーマンがいない。政治的に正しく言えばガンパーソンのはずなのに。
 どうもこの手の小説は、ヒロインの印象が弱い感じがある。ノワールやハードボイルドに比べてもそうだ。輸入ガンアクション小説には、どこかに全米ラ○フル協会みたいな古風のマチズモ思想が残っているのかもしれない。銃は男の撃つもんじゃ、的な。そのへんがヒロイン造詣におけるセンスを鈍らせているのだろうか。まあ、私は美女美少女に銃器をもたせてハアハアしている文化圏の人間だから、馬鹿さにかんして他人を批判できるもんでもないのではあるが。

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