『吸血殲鬼ヴェドゴニア』からみるヒーローの論理

0 はじめに

 『吸血殲鬼ヴェドゴニア』。ニトロプラスの十八禁ゲームである。本稿は、この作品を手掛かりに、変身ヒーローのあるべき姿について考察するものである。ちなみに、以下の論述はゲーム本編についてのネタバレを含むので、注意されたい。
 本稿の主張は端的にこうだ。『ヴェドゴニア』は、肝心なところで変身ヒーローものの基本条件をことごとく踏み外している。純粋にヒーローものとしての観点からは、私は『ヴェドゴニア』を高く評価することはできない。
 他のゲームと比べれば、そりゃ変身特撮ダークヒーローものに近い。しかしながら、逆にヒーローものとして見た場合、正直食い足りない部分がいくつか出てしまう。ヒーローものにはヒーローものの論理がある。これがあまり守られていないのである。

1 超人であること

 変身ヒーローと怪人の戦いは、超人どうしの異次元の戦いでなければならない。
 なぜヒーローが変身して戦わねばならないのか。それは、変身したヒーローでなければ勝てない敵がいるからだ。
 普通の人間では逆立ちしても勝てない恐るべき敵、これを倒せる唯一の存在として、ヒーローが登場しなければならない。そうでなければ、ヒーローなぞ不要なのだ。これは、基本中の基本である。
 しかしながら、『ヴェドゴニア』はこれを守っていない。ヴェドゴニアの敵は、訓練された人間なら銃器を使って倒せてしまうのだ。これではいけない。ショッカーの改造人間を倒せるのは仮面ライダーだけ。滝和也は戦闘員としか戦えない。こうでなくては。
 ヴェドゴニアだけしか倒せない敵、これがバシバシ出てこなければ、変身ヒーローものは成立しない。

2 能力に一貫性があること

 端的に言うと、こうなる。変身ヒーローは精神系の超能力を使ってはならない。
 変身する、ということは、自らの身体を戦闘モードにする、ということだ。つまりは、肉体系の超能力でいきます、という宣言である。それならば、徹底的に身体を使って戦わねば嘘だ。ヒーローとしての一貫性、整合性がとれない。
 それなのに、ヴェドゴニアは装甲車と対峙して、あっさり念動力やらを使ってしまう。これは非常に萎える。
 というか、そもそも装甲車ごときにてこずってはいけないのだ。先にも述べたように、変身したからには人間の武器などブッちぎった次元にいなければいけない。手刀でミサイルを叩き落し、鉤爪で装甲を引きちぎったって誰も文句は言わない。念動力を使ってよいのは、リアノーンのような可愛い女の子だけなのだ。

3 ボス敵も変身すること

 ここにもこだわりたい。
 ボスは最後に戦闘形態に変身しなければならない。
 ヒーローの側が変身して異形の姿をとっている。このとき、敵のボスが、人間体の格好のまま戦っていたらどうだろうか。変な感じがしないだろうか。
 本当の強さがどう語られていようと、絵的に非常に収まりが悪い。敵側がハンデを負っているように見えてしまうのだ。
 ボス連中は、やはり最終決戦では戦闘モードへの変身を行うべきなのだ。追い詰められ、真の宿敵と認めた者に対し、正体を見せる、というヤツである。これで初めて、互角の超絶的な戦いの火蓋が切られることになる。そう、「ショッカー最高幹部、地獄大使。してその実体は・・・ガラガランダァッ!!」っていうアレである。これが燃えるのだ。
 ナハツェーラーなぞはイカデビルが実に似合いそうではないか。

4 戦いを途中で降りてはならない

 最後にエンディングについて論じておく。
 戦いが終わったあと、ヒーローはどうすべきか。命を落としていなければ、それでもなお、永遠に戦い続けなければならない。
 なぜか。世に悪の種は尽きないからだ。ヒーローは、すでにそれを知ってしまった。これを見なかったことにして、日常に帰ることなどできない。それではヒーロー失格なのである。多くの仮面ライダーたちが、戦い終わったのち、皆に別れを告げ、いずこかへ去っていったのは、このためである。
 ヒーローは、永遠に戦うことを運命づけられている。
 さて、この観点からすると、『ヴェドゴニア』の各エンディングはどう評価できるだろうか。

 日常に帰還してしまう弥沙子エンドと香織エンドは認められないだろう。
 ヒーローものとしては、これらはダメである。吸血鬼の存在を、世界の暗闇の部分を知ったならば、戦い続けねばならない。ヴェドゴニアでなくなった惣太にどうしろというのだ、というのは当然の反論であるが、ヒーローものを冠する限り仕方ない。逆に、やっぱり『ヴェドゴニア』はラブストーリーだったのだなあ、と思わせるエンディングだとも言える。

 戦いを忘れて傍観者になってしまうリアノーンエンドも認められない。
 情感深いエンディングであるが、ヒーローものとしては全然ダメ。すべての戦いから一歩引いて、ただ移ろう世を眺めるだけの存在は、もはやヒーローではない。永遠は永遠でも、ヒーローの永遠は静止したものではなく、熱く激しく燃える戦いの永遠なのだ。

 そして、モーラエンドである。
 もうおわかりだろう。実は、モーラエンドこそ、ヒーローもののエンディングに最も近いものなのだ。
 修羅の如き戦いの日々。惣太が少々屈折しちゃったので判りにくいのだが、与えられたエンディングから選ぶとすれば、これが正解である。改造人間になり、永遠に人間的な幸福を失ってはじめて、仮面ライダーは正義の戦士となった。ヒーローを名乗るには、これからも戦い続ける、という心意気が要求されるのだ。

 考えてみると、永遠の戦いという条件には『ヴェドゴニア』のコンセプトそのものが抵触している。ヴェドゴニアの能力は、基本的に期間限定で手に入れたものなのだから。『ヴェドゴニア』のエンディングの評価が辛くなるのも理の当然ということになろうか。

5 おわりに

 以上、『吸血殲鬼ヴェドゴニア』を徹底的に変身ヒーローものという観点から検討してきた。
 これだけ読むと、なんだか私がヴェド嫌いのように見えるが、もちろんそうではない。好きだからこそ、もどかしいのである。ただし、もちろん、上記の点を改善すればもっとよいゲームになる、と主張しているのでは「ない」。ヴェドゴニアはヒーローものである一方で、ラブストーリーでもなければならないからだ。このバランスを無視して、ここを変えろあそこを変えろと言っても無意味だろう。本稿は、あくまでヒーローものとして「だけ」評価してみたものである。
 一言でまとめれば、燃えと萌えのハイブリッドがいかに難しいかってことだろうか。

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