水車小屋の風景

7 水車の名工

 

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護岸工事された

用水路

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護岸の右手に“となり”の水車があった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“となり”の水車小屋

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石屋さんの話し

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暫くぶりでお会いした橋場さんが庭で作業しておられたので、ちょっとお邪魔すると何とギンヨウアカシアの花が満開で、小さな黄色のボールがビッシリ寄せ集ってふわふわした感じに見せています。ちなみにミモザとも呼ばれていますが、ミモザは本来は別の花の名前です。

 

聞けば、2年前に苗木が目に留まり、即買って植えてみたとのこと。ずばり当たりでした。さすがはゼラニウム栽培のプロです。

 

ところで、彼のお祖父さんは大工さんでしたが、実は水車造りの名人だったと聞きました。“前の家”の水車は彼のお祖父さんの制作したものだったのです。水車は先日、河津の上佐ケ野親水公園で間近に見てきましたが、ずいぶんと手が込んだ造りで、従って名人であるお祖父さんは白田や河津でその制作・修理によく呼ばれたらしい。

 

今朝はその足で志津摩に行くべく二つ掘りの前を通ったら、オカミサンの姿があったので、この前の礼を言うと、水車のことだったら、オーナーだった“となり”のオカミサンが前の畑にいると教えてくれました。早速参上です。

 

畑には“しぐれ”のご主人もいて、お二人からお話が聞けたのはラッキーでした。ただ、水車小屋に玄米を持ち込んだことは覚えていたが、何分にも幼い頃のことだったので、具体的にどの程度の量を精米したか等の細かいことは記憶がないとのことでした。

 

用水路は現在、コンクリートで固められています。お二人の話ではその工事は4,50年前に行われたそうです。そのときは既に水車は動いてなかったそうですから、それまでは江戸時代に用水路として水が流れるようになって以来、そのままの沢の状態から水を引いて水車を回していたということになります。水車小屋はコンクリート工事を機会に撤去されたのでしょう。

 

この水車小屋は規模は小さかったということですが、目の前にある作業小屋の4倍の大きさだったということですから、かなり大きな小屋だったと思われます。何でも、戦時中、警戒警報がなると、この水車小屋に近所の人たちも一緒に詰めたとも聞きました。ここは鬱蒼とした森のようなエリアだったのです。

 

 

今朝はまた“井の際”の方まで足を伸ばし、運良く石屋さんにもお会いしました。そして先ほど聞いた橋場のお祖父さんが水車の名工だった裏付けがとれました。水下公民館の上の水車も橋場のお祖父さんの手になるもので、一度、水車を新規に作り直したあとは老朽化して廃車となり、石屋さんのお宅ではそれからは堂ノ前の裏上の水車(誇宇耶)で精米したということです。

 

石屋さんは二十歳前後の頃、一斗の玄米を担いで水車小屋に運んだことがある、と聞きました。彼の年齢から逆算すると、67年前(昭和23年)頃は未だ水車が動いていたことになります。詰り終戦後も動いていたのです。

 

ついでに石屋さんから面白い話を伺いました。彼のお祖父さんは体格の良い方で、精米するのに米俵1俵(60キロ)を背負って河津の沢田まで、親戚の精米所に運んだという。