水車小屋の風景

4 水下の用水路を訪ねる

 

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二つ掘ミカン園

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二つ掘ライン

と水下口ライン

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五十尻川の水門

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堰掘

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水下の水車小屋の跡を訪ねるについては、先ず当時の田園風景をイメージするための材料探しと、用水路の確認探索行の二つの目的がありました。

 

「二つ掘」の前を流れる水路脇は収穫体験農園の周遊路として最近整備されたので、通行許可をいただくため農園の管理センターに顔を出したら、女将さんが出てきて現地まで案内してくれたのには恐縮しました。

 

女将さんは、「二つ掘」の前に架かる小さな橋のたもとに水車があったことを教えてくれました。川の右岸に僅かながら余地があり、そこに小屋があったと言います。その背後は一段高くなった畑で、しっかりした石積が畑と小屋の双方をガードしていたように見えます。

しかし、彼女の幼い頃、母親に連れられて来た水車小屋は「堂の前」裏の小屋だったそうで、懐中電灯を手に径を歩いてやって来た記憶があるという。案内していただいた「堂の前」裏までは距離にして100mもありません。この小屋の管理者は外岡さんだったそうです。

 

彼女が二つ掘に嫁入りして来た時には、既にこの辺の水車小屋はすべて姿を消していたということですが、幼い頃、動いていたとすると、55年くらい前までは稼働していたということになります。このことは、上清水では50年前にその姿はなかったという事実とほぼ符合します。

 

それから、用水路としては水下公民館前で、この「堂の前」〜「二つ掘」ラインと、西側に「水下口」ラインが分かれていると教えていただきました。

 

公民館上のもう一つの水車小屋については、今日は場所の特定は出来ませんでした。それでも、そこから入谷の堰の沢までずっと水路をたどり、ついに志津摩川の取水口まで到達できました。水下の水車を回す水路の水源を確認したということです。

 

でも、たどり着いたところは想像していた通り、3〜4年前に別のルートから訪ね当てた場所でした。当時の私にはこの水車を回した水路という問題意識は毛頭ありませんでしたから、今回は格別な思いがあります。

 

 

 

「こころ介護」の先から西方向へ急坂をミカン畑の中へ下りて行くと、タルガネや爪木崎を遠望することが出来ます。ここを北方向に水路が続いていることを確認して、一旦、通りに戻ります。

 

そして「二葉苑」の脇から水路を再び追って行きます。上田代の新開地の脇につづく尾根道を上がってゆくと、左に大きなハウスがあって正面の屋敷で道はストップ。そこでミカン畑に上がる小道を水路に沿った形で追跡すると、とうとう道は無くなりました。

 

しかし、尚も水路のざわめきを下に聴きながら進んで、ついに再びコンクリート舗装の小道に出ました。ここにもハウスがあります。そして道なりに下って行く途中で水路を再確認してから、民家の前を通って入谷道に出ました。栄昌院の直ぐ上でした。

 

次いで、長坂の終点にある賽の神様の石壁から追跡を再開。民家の前を上がって更に下って行くと、ミカン畑を右に、左に水路を見ます。見覚えのある風景が前方にありました。志津摩川はもう直ぐ近くです。そしてついに、かつて水下の水車を回した水源に到着。

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途中、町の看板に、「五十尻川の水門を閉じている」と記されていたが、二つの水門は共に9分くらい閉じられており、少しだけの水が流れていました。志津摩川本流自体も今は水が少ない。

 

尚、堤の水車を回した水は池上さんの所で、「したんじょう」〜銀水荘に落ちる水系と、西にマリンスポーツセンター脇に落ちる水系とに分かれます。

 

外岡さんらの水車を回した水路は更に、東は「ヤシ」の脇から上清水〜洞川(三島神社周辺)へ、西は交番の脇を通って「いなとり荘」へと枝分かれしていた。そして、これら水路の大本である志津摩川の水門が「五十尻川」の水門とされていた理由が、実は何と、いなとり荘周辺の字名にあると判りました。

 

古老が覚えていたのは、いなとり荘周辺の字名が「五十尻」であり、百尻」であるということでした。ただ、どちらがどこかという具体的なエリアははっきりしないということでした。しかし、いずれにしても、五十尻は入谷の字名ではなく、浜地区の字名だったのでした。

 

そういえば、マリンスポーツセンターの裏山辺りは「小山尻」でしたね。「土尻」は入谷ですが、五十尻、百尻、小山尻は磯浜地区だったのでした。読み方も「五十尻川」は「ごじゅうじり」川で、「いそじり」川ではなかったのです。

 

ところで、現在はコンクリートの用水路となっていますが、この用水路を最初に建設するに当たっては多くの人の労力が必要だったことは当然で、その一端を“堰掘”の老婆から聞くことが出来ました。

 

老婆はこの家の6代目にあたるそうで、昔チフスがはやった初代村長、田村又吉さんの時代に西山五郎医師の助言を得て水道を敷設することになり、堰の沢のこの地の工事が始まったと言います。そこで付けた屋号が“堰掘”だったのです。“上の堰掘”が田村さんで、“下の堰掘”が鈴木さんです。

 

彼女の孫ジイサンに当たる人が相当の財を成したのですが、その子の“総領の甚六”の言葉通り家運が傾いた頃、奈良本に養子にいった次男のリクエストで謂れのある銘刀を蔵出しして、その子の出征に同伴することに。その際、刀鞘はサーベル用に改良された。大陸に渡ったのは刀だけではなく、馬も供出されたということでした。その後、その子の戦死とともに、その銘刀の行方は杳として分からない。

 

用水路探索の最後に思ってもみなかった話を聞くことが出来たのは幸いでした。