水車小屋の風景 

3 水車小屋探索

 

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もしき集め

(中澤正夫さんの絵)

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カンジロさん

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郷曳き

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水下の堤下

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用水路

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上清水の水車小屋

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勢喜尊神社の禰宜、カンジロさんが、大川端の見高車やギンジロバンジョ以外にも、幾つか水車が回っていた、と教えてくれました。大川端だけではなかったのです。

先ず上清水の寿湯の辺りに一つ、そして馬道の奥、二つ掘の向い側辺りにも。前者は今では沢に蓋をされて、水車の風景など、思いも寄らない環境になっています。後者は今でもコンクリートの大きなU字溝に水が流れています。

カンジロさんは入谷の方にもあったのではないか、と言っています。確かに山里ならば、沢水は豊富だし水流も文句ない速さの場所があるはずです。志津摩川、大川、洞川、菖蒲沢等々、堂々たる川が今でも流れていますからね。

冒頭の絵は女性が山で燃し木(もしき 焚き木のこと)を集めて運んでいるところを描いています。水車小屋があるこの場所は山深いところを思わせ、米を搗いたり小麦を粉にしたりする水車の存在理由からすると、里を離れたこの場所では如何にも実用的でなく、現実にそぐわない感じがしますが、作者の心象にあったのはどこか入谷に実在した水車小屋風景だったのではないか、とも考えられます。

ところで、この絵の女性たちの仕事を“ごうしき”(郷曳き ごうひき)というのだそうです。腰ひもで燃し木の束を引っ張って、山や谷を登ったり下ったりしたことから付けられた名称らしい。作者は、女性が一束30キロのものを3束も背負ったと書いています。すると、90キロ!?

 

 

 

 

先日は、水下に水車小屋が二つあった話を聞きました。その一つの“二つ掘”の前の水車についてはコンクリートで護岸された川がありますので、在りし日の様子が想像できました。今朝は、水下の公民館の上、「こころ介護」の下辺りに水車小屋があったというので、再確認して参りました。

 

実はその前に、念仏堂の近くで88歳の老婆からたまたま聞いた話によると、この裏、つまり、二つ掘の上流にもう一つ水車小屋があったというのです。水下地区に、しかも近距離に3つもの水車小屋があったとは驚きです。

 

一番大きな水車がこれから現地をチェックする場所に、次いで念仏堂、そして“二つ掘”のが一番小さかったそうです。彼女が幼い頃、母親に連れられてよく来たのが公民館上の水車で、米を搗き、粉を挽いていたということです。

 

さて、水下公民館の上には通りに面して2,3軒の家があり、“こころ介護”の下が畑になっています。民家の駐車場から水路を覗いてみると、量は少なめでも、確かに水が勢いよく流れています。この辺りはある程度の斜面になっているので水車は良く回っていたものと思われます。

 

「UNITED」さんの南側の小高い荒地に上がると、この辺一帯が俯瞰できます。稲取岬に灯台やホテル浜の湯も、大島も目の前です。左側の山を登れば愛宕神社です。

 

金指徹著「稲取風土記」によれば、この水車を回している川は江戸時代の宝暦から文政年間(1751〜1827)にかけて整備された用水路だったということで、字堰掘から志津摩川の水を取水し、公民館前を通り、馬道の脇へ流れていると考えれば、この用水路に水車が3つ並んでいたと理解することが出来ます。

 

地形からすると、公民館下から念仏堂の山側を通って馬道へではなく、バス停水下の方へ流す方が無理がなく思えるのですが、何か理由があったのでしょうか?また、水下の隣近所で3台の水車を回すほど需要があったのでしょうか?疑問が残ります。いずれにしても、この辺の流れについて、そして3台の水車についてもう少し調べてみる必要がありそうです。

 

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なお、後日、石屋さんから聞いた話によると、堤(水落?)の水車は土尻の物と同じく大きなもので、精米用の臼が4個と粉ひき臼が一つあったという。5〜6軒の農家が共同で管理し、順番で利用していたとのこと。動いている杵を止めるにはぶら下がっているヒモを曳くと、杵に付いている桁が外れる仕組みになっていたとか。しかし、うっかりミスすれば、ケガもしかねないのを無事故だったことに感慨無量だったようだ。

 

 

 

一昨日は水下の水車があったと思われる場所を確認後、直ぐ上の小田代から二葉苑を右に見て例の水路を横切り、半僧坊に下って、更にコーポ稲取脇のバス停入谷口に出てから、県道に入って交番の裏を探索してみました。もう一つの水車があったという場所探しです。

 

八代薬局から交番の脇の道へ入って行きます。この道は鈴屋、小学校へと通じている道です。道路は先細りですが、コンクリート道の下は水路であることが分ります。いわゆる狭いU字溝のような排水路として設けられたのではなく、川に蓋をした感じのものです。 暗渠というのですね。

 

ちょうど年配のご婦人がやってきたので訊いてみました。彼女が50年前に結婚してこの地に来たときには、水車など無かったということです。ただ、川がこの場所に流れていたのは覚えていました。その当時、家並みは現在とほぼ同じに建物はギッシリだった由。

 

その後、県道に戻って、食堂ヤシの脇から小道に入ってみました。このルートは小規模の排水路でしかなく、そこで、途中の駐車場から寿湯の方へ向かい、「まことや」さんと「おもちゃの松田」さんの通りに出ました。この通りには水路は全くありません。

 

ちょうど「まことや」さんのご主人が何か作業しておられたので、お邪魔して訊いてみました。しかし、彼も水車小屋は見たことがないと言います。あったとしたら、やはり、先ほどの交番の脇を流れる川沿いだろうということでした。ただ、寿湯の前身が粉ひきだったと聞いて合点がゆきました。

 

粉屋がモーターを回して機械を動かしていたということは、多分、それ以前の動力は水車だったと考えられます。彼は昭和14年生れで、75か76歳です。先ほどのご婦人は50年前には水車が無かったと言ってましたが、70年くらい前に既に水車の姿はなく、代わって電動モーターの時代に入っていたということでしょう。

 

ところで、ここを流れる川は小学校の体育館の脇から流れ込んでいた、と先ほどの年配のご婦人が言ってましたから、その上をたどると多分、馬道に繋がるのでしょう。「稲取風土記」では、字堰掘の水が馬道の先から大畑方面と小学校方面に分岐していたと記されています。

 

従って、江戸時代に整備された水路網によって水車が、上流の水下で3台、そして下流の上清水で1台が回っていたということになります。この件については、もう少し調べてみましょう。