水車小屋の風景

12 水車異聞

 

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屋号

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“車”関係の屋号

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関東大震災

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大川端の釣り人

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稲取の屋号にはいろいろ面白いのがあって、その由緒を追うのも楽しいものですが、ふと思いついて、「車」の字のついた屋号を調べてみました。現在までにわかっているのは、“車屋”、“車石”、“見高車”、“ガッテン車”の4軒です。

 

この中で、見高車と車屋が水車に関係した家であることがはっきりしています。ただし、“車屋”については、白田の“下の車屋“、”中の車屋“というのが昔水車を回していたと聞きましたが、稲取の”車屋“さんは、水車関係ではないらしい。

 

ご本人に聞きましたら、ご先祖には精米の仕事に関係した話は全くないので、こちらのは牛車や馬車のほうの車屋ではないかという答えでした。詰り、輸送関係の仕事ですね。

 

ご先祖の一人に、牛を追っていた時に足を怪我したのをそのまま放置したため雑菌によって片足が不自由になり、結局早死にしてしまった人がいると聞きました。そんな話を聞けば、ご先祖が牛車関連の仕事に就いていたかも知れないという一縷の望みを捨てきれません。いずれにしても、稲取の車屋さんは水車とは無縁でした。

 

次に“車石”について。

その後、水下の屋号”車石”のお宅にお邪魔して、その名の由来を聞いたのですが、現在の当主は3代目でまだお若く、しかも屋号については特別な由緒・来歴の話は聞いてなかったとのことでした。

 

ただ、このお宅の近くに、やはり“車石”という屋号の家があったらしいことは聞いたことがあると言います。現在、町道アラコ線にも同じ“車石”のお宅があるが、互いの名字は違っています。それに、由来のことも知らないそうです。

 

車の付いた屋号で残る“ガッテン車”については、志津摩の丸平さんが教えてくれました。この屋号のお宅は自転車屋さんで、“がってんだ”が口ぐせだったようです。

 

 

 

昭和59年に東伊豆町老人クラブ連合会が20周年記念誌として発行した「往還」という本があります。B5版241ページの重々しい立派な書籍で、老人クラブの歩みと、会員の過去から昭和59年当時までの生活が記されています。

 

その中の佐藤昌代さんの手記を読んでいたら、大正12年の関東大震災の記事の中に津波の興味ある現象とともに、水車のことが書かれていました。この方は田町第一クラブの所属です。

 

「・・・此の時の津波で船は八幡野の方に、家は白田の方まで流されました。私の家は水車屋で大川口から百米程上にありましたが、押し上げられた伝馬舟が水車の所に残されていました。・・・」

 

この記事によると、稲取大川の河口近くには佐藤さんの水車があって、しかも水車小屋は居住を兼ねていた可能性があります。この大川端には、見高車とギンジロバンジョさんの水車の他に佐藤さんの水車が、それぞれ時期は別として加わったかに思われました。しかし、ご近所さんに佐藤昌代さんのことを聞きましたら、見高車が実家だと分りました。結婚して佐藤姓に変わったのでした。

 

大川が工事によって設けられた用水路ではないことを考えると、ここで稲作が始まってから、そう遅くはない時期に水車が出現したと考えられます。しかし、どの時代にどの水車があったかは、稲取大川の川のみぞ知る、ということでしょうか。

 

この梅雨空に大川で釣りをしている60過ぎの人がいた。成就寺の前の橋から釣り糸を垂らして、ちょっと立ち話している間に、3匹も釣り上げた。いずれも長さ15センチほどの小魚だ。クーラーボックスの中には、既に数匹の同じ魚がいた。氷が添えられている。アユだそうだ。

 

ギンジロバンジョさんの絵にはウナギのギョロ目が描かれていたが、この釣り人もこの川にウナギの仕掛けを見たという。ただし、この川の何処なのかは教えてくれなかった。多分、仕掛けた人への遠慮か、仲間意識からだろう。仁義かもしれない。

 

彼は東京からやって来たそうだ。最初は伊東辺りをうろついてから、東海岸を南下して下田まで釣り歩き、結局、この稲取大川が一番落ち着くという。海釣りは殆どやらないそうだ。私は子どもの頃、ダボハゼ釣りに興じたことはあるが、釣り人の気持は分らない。

 

東京からわざわざ伊豆稲取まで足を伸ばして来るには、様々な理由があるに違いない。釣りの対象であるアユなどの魚の旬の時期とか、個人的な理由とか。個人的な理由にも、釣りに関係したことと、無関係なことと両方があり得る。しかし、彼は肝腎な話には乗って来なかった。私にはそちらの方が興味あったのだが、残念。

 

 

この大川の釣り人と言えば、身近な人がいる。大川端の樽やさんだ。5年ほど前、大川の河口の岸壁に足を垂らして座っているオバアサンがいたので、カメラのレンズを向けた。すると、立ち上がって近づいてきた。私も岸壁に降りる。

 

 「ここで川を見下ろしていると飽きなくてね。いろんな生き物が動き回ってる」

 「結構大きな魚もいますね」

 「なんでしょうね。あれ、あそこの岩にたむろしてる。ボラじゃないかって言ってた人がいたけど、ワタシにはわかんない。ほらあすこに2匹いるでしょ、あれはモクズガニよ」

 

オバアサンは魚釣りが好きだと言う。港のあちこちで釣りをするので、船に乗ったらどうかと誘われたが、さすがにそれは断ったそうだ。自宅がすぐ近くの川沿いの家で、座敷から釣り糸を垂らして楽しんでいるというから、よほど好きなのに違いない。

 

 「ウチの屋号は‘たるや’でね、昔はこの稲取にたくさんあったのよ。獲れた魚を入れるのに樽が欠かせないからね。松崎から竹を取り寄せて作ったものよ」

 「樽には欠かせないですね。松崎にはいい竹があったんですね」

 「そう、忙しかったね。沼津へ集金に行ったり、三崎へも行きましたよ」

 「三崎って、三浦半島の三崎?」 私は横須賀市の出身である。

 「そう、その三崎へあるとき集金に行って、行方不明だって大騒ぎになったことがあるのよ」

 「どうしたんです?」

 「集金で遅くなってしまって、三浦に嫁に行った娘の家に泊まったの。当時は電話が無くて連絡のしようがなかった」

ご主人が警察に捜索願を出して大騒ぎになったそうだ。

 

最近、このオバアチャンに道端で出会った。ちょうど洗濯物を干しているところだった。相かわらず元気で冗談を連発していた。そして私が昔のことを根掘り葉掘り聞くと、「今はもう、過去のことをくよくよ考えないことにしているの。これからのことばっかり考えてれば楽しいじゃない?」

なるほど、そのとおり。いつまでも元気で、と言ってさよならしたのだった。大正14年生れ、現在90歳である。