水車小屋の風景

11 白田の水車

 

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白田川とマンション

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白田の山根にて

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白田の交差点でバスを降り、白田川に沿う広い道を遠慮して、山際にある細い道を行くと白田中央公園があります。今ちょうど数本の河津サクラが満開でした。

更に進んだ“山根”の辺りで農家の方の姿を認めました。80歳前後のオジイサンが納屋から重たそうな肥料の包みを出して、その前に広がるミカン畑のなかへ運ぼうとしているところでした。風が強く冷たい今朝も作業に出ているとは驚きです。

ちょっとお邪魔して水車の話を聞きます。この畑の白田川側に用水路が白田川に併行して走っており、白田中央公園の所に一軒、そして来宮神社の国道を渡った浜側に一軒、そして湯ヶ岡にもう一軒あったとのことです。

白田川流域はかなり広く、一帯は殆ど田圃だったそうですから、水車小屋が3軒では少なすぎるように思えます。しかし、重ねて訊いても、3軒以上は知らないと言います。ただ、他の2軒はともかく、白田中央公園の水車小屋は米つきと粉ひきの両方を供えており、しかも藁ぶき屋根の小屋には人が住んでいたと聞いて驚きました。これは絵にナルゾ。

水車小屋のおじいさんとはどんな人だったのでしょう?このミカン農家の方は、何分にも戦時中の古い話なので、よく覚えてないし細かいことは知らないとのこと。残念ながら、忙しそうなので邪魔を詫びてこの場を離れました。

“水車小屋のおじいさん”には興味深々。それに、わずか3軒の水車小屋だけでは納得できません。湯ヶ岡へ向かい、大洞庵の遺跡を見て湯ヶ岡老人センター、更に老人ホーム湯ヶ岡の郷まで来ましたが、今聞いた話を検証したくても人の姿はありません。

それでは今日はこれまでと、“大六天”から「オレンジヒルズイン東伊豆」に出て、ここの配水場から一気にゴルフ場の入り口まで上がり、アニマルキングダムを経由して今朝の散歩を終えました。

 

 

 

白田探索第2弾

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白田親水公園

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白田公園前の水車

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上中下の車

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015/09/11

白田海岸から迂回路へ

白田の水車跡探索第2弾は3か所のそれぞれの場所を確認することです。先ず、浜側にあったとされる場所はどこなのか?

 

今朝は白田の交差点手前の白田海岸でバスを降り、山側から流れ落ちてくる用水路をたどって浜側に下ってみました。この水路はかなり大きく、音を立てて流れています。コンクリートで蓋をされており、一部開いているところを覗くと、かなりの深さがあります。この川筋にあったのでは?

 

ちょうど、初老のおばさんが軒先に細く切ったダイコンを並べていました。彼女は、しかし、この川筋に水車の記憶はないとのこと。河津の出身で、54年前にここへ嫁入りした当時、この川筋は未だコンクリートで固められておらず、川の両サイドは石垣だったと言います。それなのに無かった。

 

それでも、もっと白田川に近い所に水車があったのを思い出してくれました。ただ、かすかな記憶なので、確かなことはわからないと言います。そこで、このお宅の前の家が農家で、お年寄りがいるから訊いてみたらと教えてくれました。

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<このマンションの左手の道路の辺りに水車があった>

 

たまたまそのお宅で若いご婦人が洗濯物を干していたので、面会をお願いしたら、おばあさんを呼んでくれました。そして80歳になる彼女が教えてくれたのは、ロワジール熱川南マンションの隣りに水車があったと言うのです。

 

しかも、この近くの「丸井ストア」のお婆さん、関野さんが管理していたと言います。そしてそして、籾殻付きのままを持ち込んで白米にしてもらった、と聞いたときは驚きました。籾殻を取り除かないままでも、白米にしてくれた水車小屋があったのです。ちなみに籾殻は只でもらってきて畑の肥やしにしたそうです。糠(ぬか)はもらえませんでしたが。

 

 

ダイコンの切干を並べていたおばさんが覚えていたのは、多分、既に営業してなかった水車の外観だったのでしょう。さすがに80歳のお婆さんは、国道から西側の白田中央公園近くの水車のこともAさん一家が住み込みで管理していたことを覚えていました。

 

前回白田に来たときに膨らみ始めた、水車小屋に一人で住むおじいさんの物語は残念ながらここで頓挫しました。一升瓶を抱え茶碗酒をやりながら、水車のカタカタ回る音に耳を澄ませていたおじいさんは私の“絵”の中で幻で終わりました。

 

国道を渡って白田川沿いを上流に向って歩いていたら、立派な御殿のようなお宅の前で収穫したばかりの広げた白菜に水をかけている男性がいました。お宅の前の畑は200坪くらいの広さがあります。日焼けした顔に逞しい体つきのこの方は一見、中年男性かと思われましたが、仕事は既にリタイヤしていました。

 

先ほど、水車の場所がマンションの隣としか聞いておらず、完全に特定できていなかったので、あらためて彼に訊くと即座にあのマンションと酒屋の間の、今は道路になっている所だという。それから、この白田川に近いこの辺は殆どが田圃だったということでした。

 

余談を付け足すと、彼の実家はこの近くの山際の“山根”にあり、彼は8番目の末っ子。相当広く持っていた田畑は引き継いだ長男が殆ど売り飛ばして、兄弟への分配が1円もなかった。彼はそれでも生コンの運転手を長年務め、親会社がしっかりした会社だったので立派な家を建てることが出来たと言う。男前の彼の顔からはゆるぎない自信と、一世一代の大事を成し遂げた達成感とを読み取ることが出来ました。

 

さて、白田中央公園まで来たら、公園の前の畑に座り込んで作業している男性がいました。60歳前後の方で、無理かなと思った通り、水車小屋の記憶など全くない返事です。そこで、水車を管理していたAさんの名前を出すと、この畑の白田川寄りのほうに家があると言います。

 

どうやら、水車小屋に住み込んでいた方の家族のようです。それならまたの機会に訪問することにして更に湯ヶ岡方面を探索しようと立ち上がったら、この畑の男性が、この畑の脇に大きな用水路があって、流れる音が聞こえると言います。

 

指示されたほうにはなるほど畑の中にマンホールがあります。近づくと、かなり大きな水の流れが聞こえてきました。公園の先の民家の脇に用水路があるので、公園から少し離れた畑の方に水路が通じているようです。用水路は蓋をされて、いわゆる暗渠の状態になっていました。む、む、む、水車はこの辺にあったのかも知れない? 

 

 

本題から逸れますが、蓋の上に土をかけて畑とするためには、かなりの盛り土がされているはずです。そういえば、あの民家の脇の用水路は深い水路でした。何故に深いのか?当初は、上流の発電所による排水のせいか、量と速さが普段見慣れている用水路に比して、かなり度を越している上に、大雨や台風の時などの増水を見越して工事したのかも知れないと考えておりました。

 

いずれにしても、白田中央公園近辺の水車小屋跡の探索は後日の宿題にして、次は湯ヶ岡に向うことにします。

 

白田川にかかる赤川橋から稲取へ抜ける“迂回路”にぶつかると、そこは変則5差路と変則4差路が続いています。稲取の迂回路方面には大きな賽の神様などが鎮座しています。湯ヶ岡方面へは西へ白田川に沿ってゆきますが、この辻にある横山商店の自販機の缶コーヒーで一休み。

 

暫くすると、この店のオーナーのオバサンが上から下りてきました。久しぶりです。このオバサンには以前からいろいろ教えてもらっています。この日は吉日でした。早速、水車小屋を教えてくれたのです。この裏にも水車があったとは!この家の屋号が“下の車”。その前を流れている用水路もやはり同じく深い。

 

オバサンは湯ヶ岡公民館の後ろにあったのが“上の車”または“中の車”だとのこと。ひょっとすると、上中下の車が存在していたかも知れません。今回の探索はこれまでとして、次回は知り合いを介して、上の車、下の車、そしてAさんのお宅を訪問してみることにします。

 

 

 

きのうは久しぶりに白田海岸バス停から東泉院の脇を通って迂回路の配水場に上がり、新白田トンネルを抜けたコースを歩いてみた。途中、トンネルの手前で雨が落ちてきたが、傘持参なのでのんびり歩けたのは良かった。

 

理科大の保養所を過ぎ、少し上がったところで一人の紳士が下りてきた。白田の浜地区の方で、白田川を渡って片瀬側の川沿いを上流に向って歩き、赤川橋を渡って迂回路を歩いてきたという。配水場の所からこの道を下りてきたわけだ。

 

彼は昭和12年生れの77歳。小太りではあるが、健康そのもの。顔にシミ一つ無く皺もない。毎日、散歩を欠かさないというから、さもありなん。白田の交差点近くにお住いと聞いて、水車小屋を見たことがあるかと尋ねたら、何と、ビッグニュースを聞いてしまった。

 

白田の交差点から片瀬白田駅方向に歩いて間もなくの所にマンション・ロワジールがある。その前の路上に水車小屋があったというのは、既に私の知識の中にあった。現在丸井ストアを経営しているお宅のお婆さんが管理していた水車である。残念ながら彼女は既に鬼籍の人だ。

 

さて、その水車小屋の隣に製材工場があって、その中で水車が回っていたと言うのである。工場の中に川が流れており、そこで水車を回し得られた動力を使って製材していたという。水車のエネルギーをどう利用したかは知らない。そのまま機械的に使ったか、あるいは電力に変えていたとしたら、当時既に小電力発電を見事にシステム化していたことになる。

 

彼は昭和20年に伊東に疎開してきて翌年白田に移り、そのまま住みついて現在に至っている。従って小学生の頃に水車小屋のまわりで遊んでいたのだ。小屋の近くに2軒の家があっただけで、一帯は殆どが田圃だったという。

 

水車を回して得られたエネルギーを機械的に使ったとしたら、その具体的な製材のメカニズムを、あるいは水車のエネルギーを電力に変えていたとしたら、その装置がどんなものであったか、知る人がいたら是非聞いてみたいものだ。